ときどき声をかけた街の人と立ち話になるようで、はっはっはっは、と1丁先からでも聞こえる笑い声を発する。彼を知る人は誰もが彼を好いた。日ごろ、そこらに横になり、寝入ってしまうこともあった。彼が誰からも愛されたように、酒からも愛されたからである。
角筈1丁目の関東尾津組事務所までゆるゆる歩いて到着すると、爺さんは門内へ入っていった。奥で尾津とふたり、なにやら話し込んでいる。酒豪同士、間に酒瓶を置いて飲み続け、結局2升をのみほし、ヒゲ爺さんはその夜、尾津邸に泊まり込んでしまった。
翌日26日の昼、爺さんは尾津のもとを出発するや、ゆったりした足取りで、焼け残ったフルーツパーラー高野のビルへ入っていった。今日は酔ってはいない。「ヒゲの長尾さん」と近所で親しげに呼ばれる爺さんは、医師であった。
尾津より無料診療所の院長就任を要請され、前日、尾津に快諾を告げ、打ち合わせ後、爺さんはしたたかに酔っていたのだ。医薬品は、伊勢丹横にあった尾津のかかりつけ医・篠田病院が都合してくれることになり、副院長がヒゲ先生の片腕として通ってくれることにもなった。
自腹で弱者を救済するも
患者たちは恩知らずばかり
高野の支配人も、フルーツパーラーの営業再開の見通しが立っていないからと焼けビルの1室を診察室として貸すことにOKを出し、すぐさま尾津組の子分たちがビル周辺の瓦礫を片付け、診察室をこしらえた。
紅白幕を張って、さあ迎えた開院初日。13時に受付開始するや、医者にかかれなかった貧しい人々が続々入ってくる。結局この日、18時の閉院までに171人の病人が訪れた。もちろん尾津が費用の一切を負担する。
かくて利益ゼロ、まったくの慈善事業がスタートしたものの、尾津が自任する任侠心を十分に満足させてくれたのは、実は、ほんの最初だけだった。