救護される困窮の人々に対し、人はしばしばか弱き子猫のような純真さを見、あるいは一歩進んで聖者のような像を投影してしまうことがあるが、実際はただ、人間であるばかり。食事に介護もついてひと月余りも入院して、快復成って退院しても、尾津にハガキ1枚送ってこないような恩知らずも現実にはずいぶん出てしまったのである。人間には、当たり前だが、いろいろな人がいる。

 2週間に1度届く経費請求書を見て、尾津は苦痛を感じたが、歯をくいしばった。

――こんなことを感じているようでは「俺は本当の任侠者ではない」。その痛みを書き残すことでうっぷんを晴らし、後世こうして筆者が記すことでやっと泉下の尾津は痛みから解放されるのかもしれない。

 医院としての運営も難航した。協力をあおいだ医師会が「無料だと他会員の医院の脅威になる」と協力してくれない。診療所所長の位置に、形式的に医師会支部長を戴くことで、なんとか納得してもらう状況にはなったものの……最初は快諾してくれた高野へもスペースを返さざるを得なくなって、のち、靖国通りに面した建物へ移転していったが、ほどなく閉鎖してしまった。きっかけは、ヒゲの長尾先生の死。

次に始めた慈善事業は
無料の葬儀屋だった

 それでも尾津のアイデアはぜんぜん尽きない。無料診療所に飽き足らず、その横に今度は「尾津無料葬儀社」を設けてみた。言うなれば病院から墓場まで困窮者の世話をしたということ。

 この葬儀社の様子を見た人の証言が残っている。柿傳という京懐石店や、馬上盃という酒場、中村屋ビル内で「ととやホテル」などを経営していた実業家・安田善一は後年、こう証言している。

 長いリヤカーに棺桶を乗っけて、花を飾って葬式をやってくれた。尾津組にたのめばお葬式を出してもらえるというわけ。そういういい面も大いにやったんです。
(『新宿区観光協会創立二十五周年記念誌新宿・世界の繁華街』新宿区観光協会)