子飼いの通産官僚らを通じて
自動車、エネルギー業界にも触手

 辻トシ子の影響力は、金融業界にとどまらなかった。子飼いの元通産官僚である中川勝弘(通商産業省〈現経済産業省〉1965年入省、通産審議官、トヨタ自動車副会長)や、伊佐山建志(1967年入省、特許庁長官、日産自動車副会長)らを通じて自動車業界をも動かした(詳細は本特集の#14『「昭和の女帝」と米情報機関の元工作員によるトヨタ車120万台の輸出戦略、日米貿易摩擦をカネに変える600億円プロジェクトの全貌』参照)。

 その他、彼女が深く関わった分野として、石油や石炭、電力といったエネルギー業界がある。彼女と同業界の関係は、敗戦直後まで遡る。

 前出の本特集の#14の記事で触れたが、大洋漁業(現マルハニチロ)は1946年8月に捕鯨を再開する際、捕鯨船を動かすための重油が確保できずに困っていた。そのとき大洋漁業が頼ったのが、吉田内閣で建設相などを務めた益谷秀次の秘書で、GHQともつながりがあった辻トシ子だった。大洋漁業は彼女から、米国のオイルメジャー、モービル石油(現エクソンモービル)と日系2世の実業家K・スガハラを紹介され、スガハラを通じて同社から重油を調達するようになったのだ。

 マルハニチロは現代では大手食品メーカーとして知られるが、1960年代は世界最大の漁業会社であり、約800隻の漁船を有していた。同社に船舶用燃料や潤滑油を供給する利権は極めて大きなものだった。

 辻トシ子のビジネスパートナーであるスガハラが、大洋漁業にオイルを供給するために1957年に設立したフェアフィールド・マックスウエル(FM)社は多数のタンカーを所有。日本に石油を運ぶビジネスで莫大な利益を上げた。

 筆者が入手した辻トシ子の1957年の手帳には、「ロックフェラー夫婦 レセプション 迎賓館」という記載がある。ロックフェラー夫婦とは、スタンダードオイルを創業した一族で、度々来日するなど日本との関係が深かったジョン・D・ロックフェラー三世と夫人のことを指すとみられる。

辻トシ子の1957年の手帳辻トシ子の1957年の手帳。2月27日に「ロックフェラー夫婦レセプション 迎賓館」という記載がある 拡大画像表示

 手帳をさらに分析すると、オイルメジャーと、日本の石油会社の橋渡し役をしていた辻トシ子の姿が浮かび上がる。同年の手帳には他に、「東亜燃料KK スタンダード石油K 帝国ホテル孔雀の間」(4月5日)、「興亜石油カクテルパーティー 丸ノ内東京会館」(6月7日)、「興亜石油 故薄井久男氏一周忌」(9月27日)≫といった記載がある。

 スガハラは、サウジアラビアから日本への原油の輸入に関わっており、そのビジネスの記録からも辻トシ子の影響力がうかがえる。

 辻トシ子とスガハラによるビジネスや日米政府への働き掛けに詳しい国際日本文化研究センター機関研究員の進藤翔大郎によれば、1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発したことを受けて、スガハラは、サウジアラビアと日本の石油の貿易を安定させるために来日した。同戦争によって欧米諸国への反発を強めているサウジアラビアの態度を軟化させるため、日本政府に親アラブ的な声明を出させようとしたのだ。

 スガハラは来日中、日本の要人たちと会談した。進藤がFM社から入手した文書によれば、会談の相手には、通産相の中曽根康弘をはじめとした政府高官の他、企業経営者では、辻トシ子と関係が深い大洋漁業社長の中部謙吉、ジャパンライン(海運会社、現商船三井)社長の松永壽、経団連参与の島内敏郎(元外交官。サンフランシスコ講和会議で通訳などとして活躍)の他、東京銀行(現三菱UFJ銀行)専務の渡辺康、住友商事社長の柴山幸雄、西部石油社長の松田勝郎ら、政財界のそうそうたるメンバーが名を連ねていた。

 進藤は、「スガハラが1973年10月19日、辻トシ子および政府高官らと面会したという記録がFM社に残っていた。彼女は、政府高官をはじめ日本の要人たちとの会談のアレンジに関与していたのではないか」とみる。

 スガハラが来日中に面談した要人の中には、全農(現JA全農〈全国農業協同組合連合会〉)の常務理事の織井斉も含まれていた。日本の農家に重油を供給したり、地方でガソリンスタンドを運営したりしている全農は、スガハラにとって、石油の供給先として重要だった。だが、全農はそれだけでなく、石油ビジネスに関連して、サウジアラビアの農業を振興するための技術協力を行うプロジェクトを立ち上げるなど、両国の潤滑油としてもスガハラに協力した。辻トシ子は全農とスガハラを結び付ける役割を果たしていた。ただし、技術協力のプロジェクトは全農内部の対立によって頓挫してしまったという記録が残っている。

 スガハラは1972年、ジャパンラインが三光汽船から買収されそうになった際に、それを防ぐために動いたことがあった。その案件でも辻トシ子が重要な役割を果たしていた。進藤によれば、「三光汽船からの買収を防ぐに当たって、大蔵省や運輸省の高官、日本興業銀行の中山らの協力を取り付けるなど、調整に尽力したのが辻トシ子だった。スガハラが彼女に感謝する書簡がFM社に残っている」という。

 なお、三光汽船によるジャパンライン株式買い占めを巡っては、戦後最大のフィクサーといわれた児玉誉士夫も買収を阻止するために介入したことで知られる。だが、この案件では「児玉は、スガハラと辻トシ子とは違う目的で動いており、両陣営が連携した形跡は見られない」(進藤)。児玉と辻トシ子の関係については本特集の#17『戦後最大のフィクサー、児玉誉士夫と「昭和の女帝」辻トシ子は裏でつながっていた!?米情報機関の工作員だった日系2世がつなぐ地下人脈』(2月20日〈金〉配信予定)で詳述する。

102歳でぽつんと「原発を持ってきた」と告白
辻トシ子のスポンサーだったオーナー社長とは?

 辻トシ子を巡る大きな謎として残っているのが、日本の原子力発電導入や民間の放送局の設立における役割である。

 彼女の晩年、身の回りの世話をしていた大﨑ひろみ(辻トシ子の個人事務所、三十六会が入居していた日本自転車会館地下にあった割烹たいへいの元女将)によれば、辻トシ子は102歳で亡くなる2年前、「私は中曽根と正力松太郎と一緒にアメリカから原発を持ってきたのよ」と、ぽつんと言ったのだという。「日本初の民放をやらせるというので、正力さんに日本テレビ放送網をつくらせた」とも言ったそうだ。原発や民放の導入には米CIA(中央情報局)が深く関わっていたことは広く知られている。

 辻トシ子のつぶやきは荒唐無稽にも聞こえるが、彼女の人脈からすればあり得ないことではない。正力の右腕として原発の導入や民放の設立に貢献した読売新聞元記者の柴田秀利と辻トシ子は吉田政権の時代から赤坂や新橋で飲み歩く「仲間」だった(柴田が自著『戦後マスコミ回遊記』で認めている)。柴田が民放を開設するための対米工作で頼ったのが、辻トシ子のビジネスパートナーであるスガハラだった。

 辻トシ子の通産官僚らとの人脈は、自動車業界だけでなく、電力業界や石油業界を動かすのにも大いに役立った。彼女は長年、事務次官をはじめとした同省幹部らと民間企業との間を取り持ち、互恵関係を築いてきた。課長級以上になった通産官僚は、先輩から「辻トシ子氏を紹介する」と言われ、辻人脈に連なっていった。

 通産省・経産省の辻人脈の最後の一人となったのが嶋田隆だった。嶋田は経産事務次官や岸田文雄内閣の首相秘書官を務めたことで知られているが、元々は、資源エネルギー庁資源・燃料部政策課長を経て、東京電力福島第一原子力発電所事故後、原子力損害賠償支援機構理事や東京電力取締役執行役を務めるなどエネルギーに精通した官僚だった。辻トシ子は晩年、嶋田に「(辻人脈に組み入れる有力な)後輩は誰がいいか」と相談したが、彼女が高齢になっていることもあって、嶋田はあえて後輩を紹介することはなかったという。

 本稿の最後に、現代ではさほど知名度は高くないが、辻トシ子と深く結び付いていたオーナー企業を挙げておきたい。辻事務所は高度経済成長が終わるころまで、基本的に現金主義で、領収書を発行しないことも少なくなかった。そのため、カネを自由に動かしづらい大企業よりも、創業家が実権を握っているオーナー企業のほうが堂々と彼女とつながることができたのである。

 辻トシ子を顧問として迎えるなど関係が深かった企業に、国鉄の蒸気機関車のエネルギー源となる練炭を製造していた京阪煉炭工業(現ケイハン)や、名古屋精糖(名糖)、アラビア石油などがあった。

名古屋精糖の社長を務めた横井広太郎と辻トシ子。横井邸で名古屋精糖の社長を務めた横井広太郎と辻トシ子。横井邸で

 名糖の創業者で社長の横井広太郎は、辻トシ子の強力なスポンサーであり、共に海外旅行に行ったと噂されるなど浮名を流したこともあった。(敬称略)

Key Visual by Noriyo Shinoda