辻トシ子の手帳に残る
「スガハラ」「マーク小松」の名前
辻トシ子とスガハラが知り合ったのはいつごろだろうか。
国際日本文化研究センターの進藤翔大郎機関研究員は両者の出会いについて、「1950年代までさかのぼるという趣旨のことを(スガハラは)述べている。具体的な契機はなお不明な点が多いものの、児玉の隠匿資金物資(タングステンなど)を米軍のために確保するW作戦において、1950年代に辻トシ子とスガハラの関係が育まれた可能性もある」と話す。
筆者は、辻トシ子が益谷秀次の秘書になった1951年に、スガハラと出会っていることをうかがわせる資料をスガハラの関係者から入手した。以下は、和訳されたスガハラの履歴書の一部である。
「1951年―1956年 スガハラは、Korean War(朝鮮戦争)の期間中には、戦略物資調達のための秘密ミッションの団長として米国の努力を援助する仕事をしていた。このミッションが訪日するにあたり、(ジョセフ・C・)グルー前国務次官のメッセージを吉田(茂)首相に渡したのである。吉田を通して、スガハラは日本の将来に影響力をおよぼすと思われた多くの人物に紹介された。その中には衆院議長の石井(光次郎)、法務大臣の犬養(健)、防衛大臣小滝(彬)、官房長官益谷、そして彼の“総務アシスタント”、又、厚生大臣黒川(武雄)等が含まれていた。又、スガハラは日本のかつての貴族たちや(ACJの中心人物だったユージン・H・)ドゥーマンを通じて外務省のVIPたちにも紹介されたのである」
益谷の肩書が、官房長官になっているなど、この履歴書にはやや不正確なところがあるが、益谷の「総務アシスタント」というのは辻トシ子のことだ。彼女は、スガハラ、小松、児玉らによるW作戦に、何らかの形で関わっていた可能性が高いのだ。
筆者は、少なくとも1970年代後半までは、辻トシ子がスガハラだけでなく、小松とも緊密に連携していたことが分かる資料を入手した。以下は、辻トシ子の手帳だ。
辻トシ子の1977年の手帳。1月25日に「中部様通夜 20.たいや 小松、菅原、Yone、ケイジー」という記載がある 拡大画像表示
手帳の1977年1月25日の欄を見ると、大洋漁業(現マルハニチロ)社長で、同社の中興の祖といわれた中部謙吉の通夜があり、20時から赤坂の料亭たいやで会食があったことが分かる。メンバーとして記載がある「小松」「菅原」はマーク小松とスガハラのことだ。「ケイジー」はスガハラの息子、「Yone」はスガハラの妻である。
スガハラ一家が、米国から中部の通夜に駆け付けたのは、大洋漁業が大事なビジネスパートナーだったからに他ならない。スガハラが経営するフェアフィールド・マックスウエル(FM)社は、世界最大の漁業会社だった大洋漁業が保有する約800隻の漁船を動かすための重油を提供することで急成長した会社だった。1978年からは、日本からトヨタ車を輸出する自動車運搬船を、大洋漁業との合弁会社で所有、運航して莫大な利益を上げていた。FM社と大洋漁業をつないだのが辻トシ子だった。FM社は、毎年10万ドルの顧問料を辻トシ子に支払っていた(詳細は本特集の#14『「昭和の女帝」と米情報機関の元工作員によるトヨタ車120万台の輸出戦略、日米貿易摩擦をカネに変える600億円プロジェクトの全貌』参照)。
終戦直後から米国政府と深く関わっていたスガハラと小松は、辻トシ子とも、児玉とも、不可欠なビジネスパートナーの関係にあったのである。
昭和の女帝
小説・フィクサーたちの群像
千本木啓文著
<内容紹介>
自民党の“裏面史”を初めて明かす!歴代政権の裏で絶大な影響力を誇った女性フィクサー。ホステスから政治家秘書に転じ、米CIAと通じて財務省や経産省を操った。日本自由党(自民党の前身)の結党資金を提供した「政界の黒幕」の娘を名乗ったが、その出自には秘密があった。政敵・庶民宰相との壮絶な権力闘争の行方は?













