ビジョナリーワードとは、熱狂的ストーリーを生み出す1行の戦略である。政治家、デザイナー、起業家たちが、新しい未来を言葉に託し、時代をつくり出してきた。第3回では「企業」や「商品」というカテゴリーを超越し、時代そのものを変える動力となった言葉を3つ紹介し、どのようにストーリーが生まれたかを解説する。
世界はひとつの教室になる。
(Global one-world classroom)
サルマン・カーン(カーン・アカデミー代表)
反転授業(flipped classroom)という言葉があります。説明型の講義をオンラインで配信し、教室では応用課題に取り組んで先生と生徒が対話型の授業をするという教育スタイルを意味します。
これまで「授業」と呼ばれていた部分が自宅での「宿題」に、「宿題」になっていた応用問題への取り組みを「授業」にと、教育の手法を反転してしまうことから、こうした名前がつけられました。この反転授業の先駆者がサルマン・カーンです。
ある日、カーンは親戚の集いで、13歳のいとこナディアが「数学が苦手で困っている」と言うのを聞きます。カーンは、マサチューセッツ工科大学で科学と数学の修士号を取得していました。なんとか手助けをしてあげたいと思うものの、ネックとなったのは物理的な距離でした。カーンはボストンに、ナディアはニューオリンズに住んでおり、家庭教師をするにはあまりに遠かったのです。
そこで、カーンはインターネットを利用することを思いつきます。教科書に沿って話しながら、お絵描き用のマイクロソフト・ペイントに図や数式を書き込むという素朴なスタイルでした。
そのうち、ナディアだけでなく、別のいとこも教えてもらいたいと言い出したために、カーンは画面の映像をビデオに撮ってユーチューブにアップロードし始めました。画面に映る黒板の奥から、カーンのユーモラスな説明が聞こえてきます。このビデオは、瞬く間に世界中の話題となりました。
いとことのやり取りから新しい教育の可能性に気がついたカーンは、務めていたヘッジファンドを退職し、2006年にはカーン・アカデミーというNPOを立ち上げます。今では科学、経済学といった科目を教えるビデオを3000近くそろえ、ひと月に500万人が視聴するサイトへと成長しました。
反転授業というコンセプトは、生徒にも先生にもメリットをもたらしました。生徒は、自分のペースで学習を進めることができます。できない子と思われないように、「わかったフリ」をすることなく、何回間違えても、わかるまで繰り返し説明を聞いたり、演習問題を解いたりすることができるのです。
これまでの教育では、100%の理解を目指すことはできませんでした。便宜的に合格点をもうけて、80%理解できたら合格させる。裏を返せば、20%の部分には目をつむってきたと言えます。しかし、カーン・アカデミーはすべての子が100%理解する環境を可能にしたのです。
また教師にとっては、授業の自由度を高められるという利点があります。これまではどんなに優れた先生でも、授業の時間のほとんどを画一的で、一方通行な説明に充てざるをえませんでした。
しかし、カーン・アカデミーが可能にする反転授業であれば、ひとりひとりの理解度に応じた、インタラクティブな教育が可能になります。カーン・アカデミーではネットの講義の最中、生徒がどこでつまずいたのか、どこまで理解をしているのかデータを集め先生が把握することを可能にしています。生徒に対して「わかった?」とわざわざ聞かなくてもいいのです。反転授業は、便利なだけではなく、授業をより「人間的」にするものだとカーンは語っています。
しかし、カーン本人は、カーン・アカデミーの可能性は、教室の中の変化にとどまらないと考えています。むしろ、その教室の壁を取り払うことにあると言うのです。
たとえば、貧しい地域で昼間働かなければいけない子どもたちや、もう一度学び直したいと思っている大人たちが、教育の門を叩けるようになりました。また、カルカッタの子どもが、ニューヨークの子どもから分数の割り算を教わったり、反対に教えたりするということも夢ではなくなりました。カーンの言葉通り、まさに「世界がひとつの教室」になろうとしているのです。
世界中の人々が学び合い、教え合う教室。そのビジョンに、ビル・ゲイツをはじめ多くの人々が賛同して協力を始めています。スタンフォードなどの名門大学でも同様の取り組みが始まりました。かつて一部の人の「特権」だったエリート教育ですら、今や世界中の人々の「権利」になろうとしているのです。