「自分にごほうびをあげる」という危険な習慣

 現時点ではまださほど顕著にはなっていないものの、21世紀初頭の社会に生じたもっとも影響力のあるトレンドとは、気分を向上させたいときはいつでも、自分に報酬、すなわち「ごほうび」を与えるという習慣がますます強まったことだ。

 あともう1個食べようと、オーガニック・チョコレートに手を伸ばすとき、あともう1回だけ、仕事に出かける前にモバイルゲームの「アングリーバード」で遊ぼうとするとき、あるいは、こっそりブックマークしたポルノサイトに新着コンテンツがアップされていないかどうかチェックするとき、その行動は依存症に陥っている者のそれによく似ている。当の行動は、無害のものもあれば恥ずべきものもあるが、いずれにしても、人間にそなわる依存傾向を強めるものであることには変わりない。

 この傾向が人間にそなわっているわけは、そもそも人間の脳が、即座に手に入る短期的な報酬を求めるように進化してきたからだ。私たちの祖先は、高エネルギーの果実をその場でむさぼり食ったり、性的刺激にすぐ反応したりしなければならなかった。そうしていなければ、あなたも私も、今、この世にはいないだろう。

 問題は、もはや身体的にも必要としておらず、種としての存続にも何の意味もないような報酬に満ちた環境を、私たちが築いてしまったことにある。たとえ必要のないものであっても、そういったものは報酬であるため――つまり、脳の中で期待感と快楽といった特定の感情を引きおこすため――私たちはつい手を伸ばさずにはいられない。

 言いかえれば、私たちは「すぐに気分をよくしてくれるもの=フィックス」に手を出してしまうのだ。

依存症は、本当に「病気」なのか?

「フィックス」という言葉を聞くと、哀れな依存者の姿が目に浮かぶ。薬物依存者が薬物を「フィックス」と呼ぶ理由は、お気に入りの薬物を摂取すれば、一時的に「修理(フィックス)」されたような気分になるからだ。それは不思議でもなんでもない。大量の薬物にさらされた依存者は、化学的報酬に頻繁に依存するようになり、その脳は、化学物質が至福感をもたらしてくれる瞬間を待ちのぞんで過敏な警戒状態に陥る。しかし、いったん耐性ができてしまうと、薬物は至福感をもたらすよりも、ただ不安感と身体的不快感を忘れさせ、心身を正常な状態に戻してくれるものにすぎなくなるのだ。

 この点までは、だれもが同意しており、異論を唱える者はいない。だが、依存症の専門家はさらに先に進む。依存者の脳は、そうでない人の脳とはもともと違うと言うのだ。依存者は「依存症という病気」によって、報酬を追いもとめるように強いられている、と。

 私は、この説に真っ向から対立する。つまり、もし、あなたがチョコレート・クッキーを吐きたくなるまで食べつづけるとすれば、それは、ヘロイン依存者を過剰摂取に導く行為のマイルド・バージョンにふけっているのと同じなのである。もちろん私は、この2つの状況がまったく同じものだと言っているわけではない。この2つの状況は、「依存」という、だれもが陥りかねないスペクトル――軽いものから重いものまで、境目なくつながっている連続体――の異なる点に位置している、と示唆しているだけだ。