ドルが主役になった
ブレトン・ウッズ体制を振り返る

 ドルと金の交換が停止されたということは、アメリカにせっぱつまった何らかの理由があった、ということです。それを知るため、もう少し時代をさかのぼってみましょう。

 時計の針を第2次世界大戦が終焉に迫っていた1944年7月にまで巻き戻し、視線の先をアメリカ・ニューハンプシャー州北部にあるリゾート地ブレトン・ウッズの舞台に転じてみます。

 すでに日本は敗色濃厚で、本土防衛のためにマリアナ沖やサイパン島での死闘を繰り広げていたころ、勝利を確信するイギリス、アメリカなど連合国側は、先行して戦後の国際経済体制の構築を始めていました。その協議の場となったのがブレトン・ウッズであり、連合国45か国から約730名が参加していいました。

 同地で議論された主なテーマは、1930年代の大恐慌を招いたブロック経済など保護主義的な経済体制への反省に基づく、世界経済の安定化を目指す制度設計でした。大きくいえば、世銀(国際復興開発銀行)とIMF(国際通貨基金)という2つの組織設立です。前者は戦後の経済復興に向けて長期的資金を援助するための機関として、後者は為替相場の安定化を図るために短期的資金を供与する機関として、それぞれ設立されました。こうした体制は、「ブレトン・ウッズ協定」として1945年に発効されます。

 ニクソン・ショックに関わるのは、このうちのIMFです。IMF協定は1947年3月に発効されましたが、その国際通貨制度の設計を巡る議論の中で、イギリスとアメリカが正面衝突することになったのは、よく知られています。

 世界中央銀行のような性格を持つ組織の下で「バンコール」という新たなバスケット通貨制度の導入を主張するケインズ(イギリス)と、ドルを中心とする基金という新たな通貨秩序を作り出そうとするホワイト(アメリカ)が真っ向から激論を交わした末、その軍配は経済的な勢いで圧倒するアメリカに上がりました。

 ここに、来の金を絶対的な国際通貨とする体制から金とドルを両軸とする通貨制度への移行が、正式に決定されることになったのです。その具体的内容は、金1オンスを35ドルに設定し、ドルを唯一金と交換可能な通貨とするものでした。いわば、金とドルとが東西の横綱に並ぶ「金・ドル本位制」です。それは、経済力の飛躍的拡大に比例するように金がアメリカに集中した現実を、追認する制度でもありました。

 ほかの通貨は、ドルとの交換比率が固定化され、変動率は上下1%未満とすることが定められました。たとえば日本円は1ドル360円という平価に固定され、変動率は上下0.5%の設定でした。いわゆる「固定相場制度」です。

 この制度の下、戦後の不景気にあえいでいた各国は経常赤字をIMFによるファイナンスで支援されるとともに、各国が保有するドルはいつでもアメリカが金との交換に応じることで、為替相場の安定化が図られるものと期待しました。もっともアメリカによるドルの金兌換は、1934年の金準備法に「財務長官の判断でいつでも停止できる」と付されていたのですから、世界を揺るがせたニクソン声明は、単にその例外措置の発動に過ぎなかったのです。