ベトナム戦争で
アメリカが受けた本当の痛手
ブレトン・ウッズ体制の構築は、ほぼアメリカの狙い通りに進んだといえるでしょう。19世紀から世界の基軸通貨として貿易決済の大半に使用されていた英ポンドは、徐々にドルにその座を脅かされ、1950年代には、ついに準備通貨トップのシェアを奪われました。
ただし、アメリカの目算が大きく狂ったのは、ベトナム戦争介入の泥沼化です。
1954年のジュネーブ協定でフランスからの独立を果たしたベトナムは、北緯17度で暫定的に分断された南北を、2年以内に選挙を通じて統一することになっていました。ですが、その協定に参加しなかったアメリカは、意向の通じる傀儡(かいらい)政権だった南ベトナムを「固定化」する方針へと傾いていったのです。
その外交戦略は、南ベトナムにおける反米闘争に火をつけ、1960年の南ベトナム民族解放戦線の設立と同時に、本格的な内戦突入へ背中を押してしまいます。それが、南を支援するアメリカと北を援護するロシアの代理戦争へと発展していったのは、冷戦構造の必然でもありました。
アメリカはジョンソン大統領の時代に北爆開始など積極的な介入方針を採っていましたが、その後戦争が長期化し、かつ泥沼化したために、結果的に巨額の財政支出を強いられることになりました。それは、米軍の増強状況を見れば一目瞭然です。1961年には1000人に満たなかったベトナム戦争向けの兵力数は、1966年には30万人以上にも膨れ上がっていました。
その結果、第2次世界大戦後に急減し、朝鮮戦争で再び増加に転じていたアメリカの軍事支出は、このベトナム戦争でさらに増加して、GDP比約10%規模にまで達することになりました。ベトナム作戦への支出額も1967年には年間200億ドルを超え、国防費のほぼ半分を占めるようになっていたのです。最終的にアメリカがこの戦争から手を引いたのは、約15年を経た1975年のサイゴン陥落の日でした。
ブレトン・ウッズ体制が崩れた理由として、ベトナム戦争でアメリカ経済が疲弊したからという説明もよく聞かれます。でも実際には、この軍事支出増は短期的には経済活動を活発させる結果をもたらしてもいたのです。1960年代は景気対策として、減税や設備投資への税控除、減価償却期間短縮などの政策が打ち出されてはいましたが、軍事支出の増加もまた間違いなくアメリカ経済の拡大に追い風となっていました。
ただしそれは必然的に、輸入増を通じた貿易黒字の縮小と、国債発行増によるインフレ率上昇をもたらします。それが、健全だったアメリカ経済の姿を急速に変えていきます。
一方で、着実に経済回復を果たしたのが欧州経済でした。
第2次世界大戦の主戦場となってすっかり疲弊していた欧州は、アメリカによる支援や戦後経済の復調の中で徐々に経済の安定性を取り戻し、1958年にはイギリス、ドイツ、フランスなど15ヵ国が通貨の交換性を回復します。それはブレトン・ウッズ体制の大きな成果でした。
アメリカが底なし沼のようなベトナム戦争に引き込まれていく中で、欧州諸国は生産性を回復して競争力を高め、金や外貨準備を増やしはじめていきました。それが世界の経済構造の変質を促し、各国の金準備にも顕著な変化が見られるようになります。端的に言えば、アメリカから欧州諸国へと金が流出しはじめたのです。