ドル不安はどのように
高まっていったのか

 1940年代には、世界の6割以上の金がアメリカにありました。前述の通り、ブレトン・ウッズ体制は、そのアメリカに集中する金準備を土台にして設計された制度です。しかしアメリカで中央銀行の役割を担う、FRB(連邦準備制度理事会)の統計によれば、1950年代には200億ドル相当以上あったアメリカの金準備は1958年以降次第に減り始め、1963年には150億ドルにまで減少してしまいました。

 唯一金と交換可能な通貨を持つアメリカの金準備は、国内通貨に対する準備と、外国通貨に対する自由準備の2つに大別されます。仮に、金準備が100億ドルあっても、国内準備として80億ドル必要であれば、海外保有のドルを金に交換する要求に対して応じられるのは20億ドルというわけです。

 たとえば、ブレトン・ウッズ会議の5年後に当たる1949年時点のアメリカの金保有高245億ドルのうち、国内準備が105億ドル、つまり海外の要求に応じられる自由準備は140億ドルでした。当時、外国通貨当局が保有するドル資産は29億ドルに過ぎなかったことから、アメリカはいつでも金交換に応じられる余裕があったのです。

 しかし、そうした横綱相撲も、長くは続きませんでした。軍事支出や経済援助など政府部門の赤字増加によってドルが海外に流出し、金保有高は急速に減少していったからです。それに伴い自由準備が減少する一方で、海外諸国のドル保有高が増えていきました。ついに1959年には、アメリカの自由準備75億ドルに対して海外当局のドル資産が91億ドルと、逆転してしまったのです。

 もちろん、欧州諸国がすべてのドルを金に交換しようとするわけではないので、このシステムが一気に崩れることはありません。ですが1960年代にいわば「マイナスの金準備」が100億ドルを越えるようになると、欧州諸国はドルに対する不安を抱きはじめました。

 工業製品の競争力を強める欧州は、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体の発足以来、1957年の経済共同体や原子力共同体などの組織化を通じて、アメリカ経済の強力なライバルと化していきました。金のフロー変化は、そんな欧米経済力の相対性を反映していたのです。

 こうしてアメリカ国外で「ドルの過剰」が認識されるのにともなって、ますます「ドル不安」は高まっていきました。ベルギー生まれの経済学者ロバート・トリフィンは1960年の著書『金とドルの危機』の中で、特定国の通貨に依存する金本位制(すなわち金ドル本位制)の下で、基軸通貨の供給とその信用の維持は両立し得ない点を論じています。いわゆる「トリフィンのジレンマ」です。

 つまり、アメリカが経常赤字でドルを垂れ流さない限り国際的な流動性は保てない一方、そうした状況が続けばドルの信認は低下してしまう、という矛盾を指摘していたのです。その構造的な不安の中で、特にフランスのドゴール大統領がアメリカに対して執拗に、保有するドルを金へ交換するように迫ったことはよく知られています。最終的にニクソン大統領が1971年8月15日に決断を下した直接のきっかけは、盟友であるイギリスが20億ドル程度の金兌換を要求してきたことだった、といわれています。