石坂典子社長就任当時、社内の雰囲気は、かつての人気学園ドラマ『スクール☆ウォーズ―泣き虫先生の7年戦争』(TBS系)のようだった。
エロ本散乱、社員はヘルメットをかぶらずにサンダル履きでくわえタバコ……。30歳の女性社長が50代の不良社員と対峙。しかも地域からは「石坂は出て行け!」の大バッシングの嵐。自身の子育ても含めれば、「マイナス1万からのスタート」だった。
あれから12年。
現在は、トヨタ、全日空、日本経営合理化協会、滝川クリステル氏、中南米・カリブ10ヵ国大使……日本全国だけでなく世界中から多くの見学者が訪れ、社員は誇りを持ってお客様をエスコートする。
石坂産業にいったい何があったのか?
元リッツ・カールトン日本支社長の高野登氏と石坂典子氏の対談後篇をお届けする。(構成:橋本淳司)

石坂典子(いしざか・のりこ)
石坂産業株式会社代表取締役社長。「所沢ダイオキシン騒動」最中に2代目社長に。地域から嫌われ、社員の4割が去る絶体絶命の状況から「脱・産廃屋」を目指し、社員教育を断行。12年かけて、トヨタ、全日空、日本経営合理化協会、各種中小企業、大臣、知事、大学教授、タレント、ベストセラー作家、小学生、中南米・カリブ10ヵ国大使まで、日本全国だけでなく世界中からも見学者があとを絶たない企業に変える。 経済産業省「おもてなし経営企業選」選抜。2013年末、首相官邸からも招待。財団法人日本そうじ協会主催の「掃除大賞」と「文部科学大臣賞」をダブル受賞。『心ゆさぶれ! 先輩ROCK YOU』(日本テレビ系)にも出演。ホタルやニホンミツバチが飛び交う里山保全活動に取り組み、JHEP(ハビタット評価認証制度)最高ランクの「AAA」を取得(日本では2社のみ)。「所沢のジャンヌ・ダルク」という異名も。本書が初の著書。(撮影:平山順一)

経営でいちばん大切なこと

高野 私は会社にとっていちばん大切なのは、哲学だと思っています。哲学が社員一人ひとりの行動につながるからです。石坂社長は、お父様から事業承継された直後、まず経営理念を定めていますよね。

石坂 それまでは父自身が生きる経営理念であり、社内で共有する必要もなかったのでしょう。そこで父に経営理念をつくってほしいと頼むと、2日後に紙を渡されまして、そこに「謙虚な心、前向きな姿勢、そして努力と奉仕」と書いてありました。最初は「経営理念っぽくないな」と思ったのですが、この理念に沿って行動してきたことで、厳しい時期を乗り越えられたと思います。

高野 先代はすばらしい哲学を持っていた。しかし残念ながら、それを社員に共感・共鳴させていくことはしなかったのでしょう。だから、社員が、タバコの吸い殻がバケツに山積みになっていたり、ヌードグラビアを休憩所の壁に貼るというようなことをしていた。これは「自分は刹那的でいい」という哲学を持った人たちの行動です。そこに、石坂社長が新しい哲学をビルトインさせたわけです。最初は抵抗があったのでは?

石坂 ヘルメットを床にたたきつけ、「やってらんねよ!」と捨てゼリフを吐いて出て行ったまま帰ってこないとか(笑)。半年間で社員の約4割が退職しました。その頃、ある社員が「校則がいっぱいできた」と苦笑いしていましたが、私は特別厳しいルールをつくったとは思いませんでした。基本的には「就業時間内は仕事をする」「挨拶をする」の2つだけです。“脱・産廃屋”として目指す一般的なメーカーの工場であれば、当たり前のレベルです。私は当たり前のことができていなかった社員に「当たり前のことができるようになろう」「自分たちが変わらなくてはならない」というメッセージを送っただけです。

高野 登(たかの・のぼる)
1953年、長野県戸隠生まれ。ホテルスクールを卒業し単身渡米。NYプラザホテルに勤務した後、LAボナベンチャー、SFフェアモントホテルなどでマネジメントを経験。リッツ・カールトンでサンフランシスコをはじめ、マリナ・デル・レイ、ハンティントン、シドニーなどの開業をサポートしつつ日本支社を立ち上げる。リッツ・カールトン日本支社長として1997年、ザ・リッツ・カールトン大阪、2007年にザ・リッツ・カールトン東京の開業をサポート。リッツ・カールトン退社後は、全国で講演・セミナーをしながら、企業、病院、学校、地方自治体などの組織づくりをサポート。同時に「寺子屋百年塾」を立ち上げ、独自の勉強会を主宰。著書に『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』『リッツ・カールトンとBARで学んだ高野式イングリッシュ』など多数

高野 それでも哲学が変われば、哲学に合わない人は離れていくものですが、さすがに不安になったでしょう?

“石の上にも8年”
――感謝されることで、
社員の意識が変わる

石坂 そのとき父が、「規模や人員を縮小しても、生き残りはかけられる。会社を存続するには勇気を持って事業を縮小しなくてはいけないときもある」と言ってくれました。この言葉によって、社員が辞めていくことを恐れて、改革の手を緩めてはいけない、という決意ができたのです。

高野 そのときは地域から「石坂は出て行け!」とバッシングされている“絶体絶命”の時期ですよね。

石坂 そうです。そういう厳しい中で永続企業を目指していたので、自分たちが変わらなければならないと。「私のやり方が不満なら、辞めてもらっても一向にかまわないから!」と思っていました。

高野 強い気持ちで新しい哲学を浸透させていったのですね。