だが、僕の研修を通じて「考える」ということの正確な意味をご理解いただくと、2日間とか1週間の研修が終わったころには、誰もが「せいぜい10分か15分でしたね……」と答えるようになるのが常である。

「書かずに考える」のは一握りの天才だけ

ただし、「考えること=書くこと」というのは、あくまでも一般人に当てはまる真理であって、もちろん両者が概念的にまったく同じものだというわけではない。世の中には何も書かずにものを考えられるような、驚くべき頭脳の持ち主も存在している。

たとえば、文豪・三島由紀夫。彼は「1970年に割腹自殺しなければ、間違いなくノーベル文学賞をとったであろう」と言われたほど、文壇において希有な天才として知られていた。

しかし、文学の才に恵まれる以前に、彼はものすごい秀才としても有名だった。何しろ東大法学部を主席で卒業し、大蔵省に入省しているのである。

そんな彼が自分の仕事のやり方として豪語していたのが、「小説の最後の1行が決まるまで、ペンを執らない」ということだった。頭の中で原稿用紙数百枚分をすべて組み立ててから、おもむろにモンブランのマイスターシュテック149という太字の万年筆を使って書き始めるというのである。

ある編集者に聞いたところ、どうやらこれは実話らしい。その編集者の上司は、三島の最後の担当編集の一人だったそうだが、締め切りが迫ったあるとき、三島は担当編集に向かってこう語ったそうだ。「君、いまから俺は原稿をすべてしゃべるから、そのまま全部書き取ってくれ」と。

そして実際、それがそのまま小説の文章として使われたというから驚きだ。
僕たちにはまずこんな芸当はできない。考えるというプロセスと書くというプロセスは不可分であり、書きながら考えるしかないのである。

僕がずっと考えてきたこと

僕の最新刊『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか ―― 論理思考のシンプルな本質』はおかげさまで早くも第5刷まで版を重ね、各方面からもうれしい感想をいただいている。佐藤優さんにはこんな書評まで書いていただいた。

※参考:佐藤優氏による書評↓
佐藤優・評「今週の本棚」『毎日新聞』2015年11月8日付 朝刊

こんなタイトルの本を書いておきながら、じつは僕自身も灘高校・東大法学部の卒業生だったりする。

そこそこ「お勉強」ができた僕も、社会に出て博報堂ボストン コンサルティング グループで働くようになると、いやと言うほど「敗北」を味わうことになった。