個人的な話になるが、筆者は通算9年間にわたってロンドンで資本市場のディーラー兼商品開発者として働く機会を得た。ロンドン市場の特色は、世界中に散らばる情報の迅速な分析を求められることであった。先端の金融工学や各国の経済分析だけでなく、地政学リスクの把握も必要になる。世界の現代史は習っていない、などと言い訳ができない世界である。

 当時、ある先輩から帝政ロシアが使っていた地図を見せてもらい、仰天した。南北が逆転したその地図は、ロシアがどんなふうに南下政策を考えていたのかが一目で解るものであった。恐らく現在でも、プーチン大統領は南が上に来る地図を使っているのではないだろうか。中国の習主席も、日本列島を目の上のたん瘤のように上目遣いに見る地図を使っているかもしれない。

 英国人の頭には地球儀が収まっている、と言われることがあるが、それは前述したように、地政学が英国から始まったこととも無縁ではない。こうした海外勤務を経て筆者が得たことは、世界を日本中心のメルカトル地図ではなく地球儀を回すように、それも上下左右から満遍なく眺めることが必要だ、という経済感覚であった。

 日本経済もこれまで、地政学リスクを発端とする原油価格急騰や金利の急上昇、急激な円高、そして株価急落などに翻弄されてきた。そんな時代はすでに過去のものだ、と言い切る自信は少なくとも筆者にはない。

地政学リスクには国際金融構造を変化させる力もある

 それどころか、市場や経済を攪乱する可能性のある今日の地政学リスクは、地域的に拡大しているばかりか性質的にも多様化し、迅速かつ正確に理解することが益々難しくなってきた。中国との関係だけが日本にとっての地政学リスクではない。昨今の中東や北アフリカ、あるいは東欧やロシアなどが抱える諸問題が、想像を超えるルートで日本経済にも波及する可能性を、われわれは過小評価しているような気もする。

 そして、地政学リスクが国際金融構造を大きく変化させる力を持っていることも忘れてはなるまい。ポンドが基軸通貨の座をドルに譲った背景には、19世紀半ば以降に米国経済が急速に力を付けたことが根底にあるものの、最終的にポンドに引導を渡したのが20世紀の2度にわたる世界大戦であったことは否めない。戦後の冷戦期に資産凍結を恐れたソ連がドル預金を英国の銀行に移管し、ユーロダラーと呼ばれるオフショアのドル市場が生まれたことも有名な話である。

 今後の行く末を見据えた際に、欧州諸国がユーロを維持できるかどうかも、さまざまな地政学的問題にかかわってくるだろう。仮にユーロが消滅するようなことがあれば、それは準備通貨システムへの影響を通じて日本にもインパクトを与えるかもしれない。人民元の将来像が、中国を巡る地政学リスクに左右される可能性もある。米国の外交姿勢の変化が、ドルの役割を大きく変化させるシナリオもあり得ないではない。

 地政学は、明日の相場を揺るがすリスクの母体であるとともに、将来の経済構造を変化させる要素を胚胎する土壌でもある。日本国内でのビジネスや投資に限界が見えてきたいま、世界の何処にどう目を向けるべきか、眼力が問われる時代にわれわれは生きているのである。

 地政学が、投資家だけでなく実体経済に携わるビジネスパーソンにも極めて重要な情報であることは明白である。これから世界の舞台で勝負する人々にとって、旧時代の地政学ではなく21世紀の地政学が重要な武器になることも間違いない。そして、ローカルかグローバルか、といった二分化の意味も次第に薄れていくだろう。

 このたび上梓した拙著『地政学リスク 歴史をつくり相場と経済を攪乱する震源の正体』は投資の指南書でもないし、地政学の入門書でもない。したがって、そうした分野に興味を持たれた方は、それぞれ深く掘り下げた専門書を紐解かれるのが良い。同書の目的は「不幸にして内向きの日本社会」に育った世代が、グローバルな経済や金融を見る目を養うためのひとつの踏み台になることであり、非力ながらもその目的が成就されることを心から切に願うものである。