でもきっと、別に大人だけがいろいろあるわけじゃない。
がつがつ食事をするニイニに、「今日はどうだった?」と聞けば、「べつに問題ないよ」と必ず言います。部活では先輩に気を遣い、先生に睨にらまれ、足の速さ、話の面白さ、背格好、ありとあらゆる男の力比べでヘトヘトだとしても。
ポチンはたいてい「楽しかった!」と言います。まあ、聞かずともべらべら報告してきて本当に楽しそうではありますが、仲良し4人組と遊ぶ中で1対3の仲間割れが生じたり、主張の通る通らないで言い合いや我慢をしたとしても、それは報告の外。
いいことも悪いこともママに言って浄化する年齢のマメでさえも、保育園との連絡帳に
「○○ちゃんとケンカになりましたが、すぐに仲直りしました」と知らないことが書かれていて、その行間からは、眉間にしわを寄せて言い合いをするマメの姿やにじむ涙が見えてきます。
みんなきっと、わたしの見えないところで頑張ってきてるんだな、としみじみしかけたところで「ごちそうさま」とさっさと食卓を離れるニイニ。「♪いいことばかりはありゃしない~きのうは白バイにつかまった~」とヘンテコな声で歌いながら2階へ行く姿を見ると、こののんき坊主め!制服も部活の洗濯物も散らかしっぱなしで、待ちなさい!と一気に慈しむ気が失せていきます。感慨は、目の前に我が子がいないときのみ押し寄せるもののようです。
ホームを離れ、集団の中で社会的な立場を背負って過ごす平日は、誰もがサバイバルを繰り返している時間です。家族には言わない、報告の言葉の先にある細やかな世界は、それぞれの胸の内にしまわれて見えぬまま「その人そのもの」になっていきます。
産まれるときも1人、死ぬときも1人、と言いますが、それどころか「ひとつ屋根の下で暮らす」時間はなんて短く、共有する部分はなんて少ないのでしょう。相手をどれだけ理解しているかを確認する術はなく、それでも少しでもよく見、よく知り、正確に理解したいと願うのです。
そうはいっても平日モード、頭と心が容量オーバーにならないよう受信制限がかかっているのか、見る目も聞く耳もちゃんと機能しないことがあります。
忙しいときに、心に蓋をしているものって一体何なのだろう?やらなきゃいけない大事なことであふれ返っている平日の「大事なこと」って何なのだろう?と、ふと考える。
そりゃ、仕事の締め切りに遅れてはいけない。だって、それを守らなければまわりに迷惑をかけてしまうから。だけど、そんな目の前の大事なことに心を奪われると、ホントに大事なもの……たとえば、大事なこどもたちのささやかな目の曇り、SOSのシグナルなどに、気づけなくなってしまうのではないかという不安はいつもあります。
やるべきこと=大事なこと、急いでいること=大事なこと、という判断で動いている平日に、捉え損ねているものはきっと少なからずあるはずです。