キリスト教主義の学校として
――毎朝の礼拝から学校の一日が始まるわけですね。
鵜崎 講堂での礼拝は必修単位としていませんが、登校は礼拝からとし、出席はとっています。私もお話ししますが、信徒の先生が4割ほどいますので、交代で行っています。
――そんなにいらっしゃるのですか。
鵜崎 以前は半分以上いましたから、これでも減ってきました。その点では、修道女(シスター)がいなくなってきているカトリックの女子校の方が大変だとお聞きしています。
――男性の教員も増えているのですか。桜蔭さんは確か2人だけでしたが。
鵜崎 伝統的な女子校は少ないですよね。宿泊行事などは、やはり女性の教員が対応することになりますし。それでも本校では男性教員が増えてきていて、私を含め現在20人います。
――だいぶ変わりましたね。ところで、以前、桜蔭の校長先生に伺ったところ、「私、輝いています」が桜蔭の流行語だとおっしゃっていました(笑)。学校によって、そういった言葉のブームがあるものですか。
鵜崎 女子学院には「標語聖句」というものがあります。聖書の中の言葉を毎年1つ私が選び、その意味を生徒に1年間考えてもらうものです。21年度はイザヤ書の「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。」でした。22年度はマタイによる福音書の「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」になります。
この他にも合議制の担任団が、今年の目標というかテーマとして各学年の「標語聖句」も決めています。
――キリスト教主義の教育の特徴とはどのようなものでしょう。
鵜崎 女子学院には力のある生徒がたくさん来てくれています。その力をどういうふうに使うかということを、教育の中では特に気をつけて教えるようにしています。
自分自身のためにだけ使うのではなく、持っている力を世の中のためにどのように役に立てることができるのか。キリスト教的な部分では、自分自身を大切にすることによって他者をも大切にする宗教的な考え方も入ってきます。そこが教育の一つの柱になってくると思います。
社会との関わりという点では、いまここで私がしなければいけないこと、あるいは他から頼まれて、あなたにしかできないことに応える。そのため、「私にはまだできません」ではなくて、望まれたら「私がやるんだ」という、一歩踏み出すために必要となる力を、精神的な面でも中高で十分に蓄え、備えておいてほしいと思います。