深澤 献
1912年にシャープを創業した早川徳次の言葉に「人にまねされる商品を作れ」というものがある。他社がまねをするということは、消費者のニーズが高いことの証左であり、それを他社に先駆けて開発し、量産することが勝利の法則ということだろう。実際、シャープは数々の世界初、日本初の製品を生み出し、戦後の日本を「家電王国」に押し上げる重要プレーヤーとなった。

「経済学の巨人」と称されるジョン・K・ガルブレイスは、米ウォール街の過熱ぶりについて警告を発し続けていた。マネーゲームの行き過ぎ、M&Aブーム ジャンクボンド(くず債権)外国資金の大量流入など、ぬぐい切れない不安が米国経済に根差していて、この浮かれ騒ぎが収まったとき、深刻な不況に見舞われると予測している。また、米国と同様に、金融危機の可能性を抱えているのが日本だとガルブレイスは指摘する。

保守系の評論家として知られる山本七平(1921年12月18日~91年12月10日)は、56年に聖書学を専門とする山本書店を創業。70年に『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著・山本訳)という、ユダヤ人との対比による独自の日本人論を出版すると、これがベストセラーとなった。イザヤ・ベンダサンは山本のペンネームであるとされており、その後は『私の中の日本軍』『論語の読み方』『「空気」の研究』など数多くの著書を残した。

1971年、小倉昌男(1924年12月13日~2005年6月30日)は、父である小倉康臣が創業したヤマト運輸の2代目社長に就任した。ところが、間もなく訪れたオイルショックとガソリン価格の高騰で業績が低迷。そこで76年、小倉が乗り出した新規事業が個人向け小口貨物配送サービス「宅急便」である。当時、個人間の輸送は、郵便局の小包(現在のゆうパック)か国鉄(現JRグループ)による鉄道小荷物の寡占だった。

1918年3月、大阪で創業した松下電気器具製作所(現パナソニック)の創業メンバーは松下幸之助、幸之助の妻・むめの、その弟・井植歳男の3人だった。その後、むめのは歳男の下の弟2人や妹の夫らも呼び寄せ、家族を挙げて松下家とその経営を支えた。だが第2次世界大戦後、幸之助が連合国軍総司令部(GHQ)から公職追放されたことで、歳男らは47年に独立創業する。これが三洋電機の始まりだ。

「週刊ダイヤモンド」1986年5月24日号に掲載された、サントリー(現サントリーホールディングス)社長の佐治敬三(1919年11月1日~1999年11月3日)と東京急行電鉄(現東急)社長の五島昇(1916年8月21日~1989年3月20日)による「今こそ世界のリーダーシップを握る好機」と題した対談だ。五島は日本商工会議所会頭、佐治は大阪商工会議所会頭という肩書で登場している。

今回は、「ダイヤモンド」1964年1月6日号に掲載された八幡製鐵(現日本製鉄)社長の稲山嘉寛(1904年1月2日~87年10月9日)のインタビューだ。稲山は「競争より協調路線」のスタンスを貫き、「ミスター・カルテル」の異名を取ったほどの人物である。

今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1966年5月23日号に掲載された住友金属工業(現日本製鉄)社長の日向方齊(1906年2月24日~93年2月16日)と、ソニー(現ソニーグループ)社長の井深大(1908年4月11日~97年12月19日)の対談である。

今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1981年9月12日号に掲載された韓国サムスングループ会長、李秉喆(イ・ビョンチョル:1910年2月12日~1987年11月19日)のインタビューだ。李は日本統治時代に早稲田大学政治経済学部で学び、38年に大邱(テグ)で三星商会を設立した。これが韓国最大の財閥の始まりである。

キヤノンの前身、精機光学研究所は1933年11月創業。ドイツのライカに「追い付け追い越せ」で国産カメラの開発にいそしむ。47年にキヤノンカメラに社名変更し、54年にはライカに劣らぬ名機と評価を受ける「IV Sb改」を世に出した。賀来龍三郎が入社したのは、まさにその年である。

荒畑寒村(1887年8月14日~1981年3月6日)は、日本の社会主義運動の先駆者である。1903年、横須賀海軍造船廠で職工見習だったときに、日露戦争に非戦論を唱えた幸徳秋水、堺利彦らに感化される。幸徳、堺が非戦の主張を貫くために発刊した社会主義新聞「平民新聞」に参加し、社会主義運動に身を投じた。

今回は「週刊ダイヤモンド」1984年12月29日号に掲載された、作家で経済企画庁長官などを務めた堺屋太一(1935年7月13日~2019年2月8日)の談話記事である。

今から35年前、バブル景気真っただ中の1988年5月、東京都江東区塩浜に三洋証券のトレーディングセンターが建設された。東京証券取引所の立会場の約2倍、サッカー場がすっぽり入る広さのトレーディングルームは当時、東洋一と称された。壁には巨大モニター、フロアには最新鋭のコンピュータ端末が3000台も並び、世界中の市場動向が常に映し出されていた。24時間取引に対応できるよう、仮眠室も完備していたという。

今回は、「週刊ダイヤモンド」1997年9月20日号の特集「ソニー複雑系経営の秘密」に掲載された、当時のソニー社長、出井伸之(1937年11月22日~2022年6月2日)のインタビューだ。聞き手は当時、京都大学経済研究所長を務めていた佐和隆光である。

今回は1987年5月16日号に掲載された住友銀行(現三井住友銀行)の磯田一郎会長(1913年1月12日~93年12月3日)のインタビューである。聞き手は文化精神医学者の野田正彰氏。「ザ・経営者」と題されたシリーズ企画で、当時の日本を代表する経営者たちに、生い立ちから若い頃の夢、経済人として社会や時代にどう関わってきたのか、そして自分の仕事をどのように捉えているかといったテーマに深く切り込む内容となっている。

総合商社の伊藤忠商事と丸紅は、江戸時代末期の1858(安政5)年に、伊藤忠兵衛が関西から全国各地へ麻布(まふ)を行商する「持ち下り」を始めたのが起源だ。上方の商品を携えて地方へ出張販売し、帰りは地方の産物を仕入れて上方で売りさばくという近江商人のスタイルである。1872(明治5)年、大阪・本町に呉服太物商(呉服は絹織物、太物は綿織物・麻織物を指す)「紅忠」(後に「伊藤本店」に改称)を構え、海外貿易にも乗り出した。また、相場商品である綿糸の卸商「伊藤糸店」も開設。伊藤忠商事の社史によると、現在の伊藤忠商事はこの糸店が根幹となり発展したものという。

今回は、ロイヤルホールディングスの創業者でファミリーレストランの草分け、江頭匡一(1923年3月25日~2005年4月13日)のインタビュー。「週刊ダイヤモンド」1983年1月8日号に掲載されたものだ。

山種証券創業者の山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)インタビューだ。話の中に出てくる人物たちが、どれも興味深い。日本画家である川合玉堂は山崎と親交が深く、山種美術館(東京都渋谷区)にも71点の作品が収蔵されている。インタビューでは、奥多摩の川合邸に足しげく通ったエピソードが語られている。山崎は川合が亡くなる2~3年前に「私の心の戒めになるようなものを書いてください」と頼んだところ、「信は万事の本を為す」との書をもらい受けたという。この言葉は今も、ヤマタネグループの経営理念となっている。

山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)は群馬県北甘楽郡(現高崎市)に生まれ、16歳で上京、叔父の山崎繁次郎が営む東京・深川の回米問屋、山繁商店に入社した。山繁商店では営業支配人として1918年の米騒動を体験するなどで、相場観を磨いた。

先ごろ亡くなった豊田章一郎(1925年2月27日~2023年2月14日)は、トヨタグループの始祖である発明王、豊田佐吉を祖父に持ち、豊田自動織機製作所に自動車部を設け、トヨタ自動車工業を創業した父・喜一郎と、高島屋創業者の飯田新七(4代目)の娘である母・二十子の間に生まれた豊田家の長男である。ただ、喜一郎からトヨタに入れとは一言も言われなかったし、自分もその気はなかったと自著で明かしている。
