大震災が起こっても、
人間のアイデンティティまで問われるわけではない

 震災後、仕事の打ち合わせで女性誌の編集の方とお会いしました。メディアが一斉に震災の悲惨さを伝えるなか、その仕事は震災とは一切関係がないものでした。

 震災前から決まっていた仕事ですから、進めるのは当然のことです。少なくとも私はそう思っていたのですが、その編集者は戸惑いを隠せないようでした。
「被災地で苦しんでいる人がいるのに、自分はこんな仕事をしていていいのか」
「自分がやってきた仕事は、いったい何だったのか」
「これほどの大災害が起こったあと、自分は何をしていけばいいのか」

 エンターテインメント、ファッション、健康。被災者支援とはまったく関係のないそうした仕事をしていることが虚しいと言うのです。

 この編集者だけではなく、いま、アイデンティティが揺らいでいる人が非常に多くなっています。性格的に真摯な人であればあるほど、その傾向は強いようです。

 お花屋さんを例にとりましょう。

 被災者支援に直接結びつかない自分の仕事は、社会の役に立っていないのではないか。その人にとっては、小さいころから夢見てようやく手にした職業なのに、未曾有の大災害の前ではまったく無意味だと思い込んでしまっています。

 その後ろめたさは、自分の行動を正当化することで抑え込んでいます。
「被災者支援に行く人が私の花で癒され、優しい気持ちで支援をしてくれるはずだ」
「私は、花を売ることで経済を回している。これが被災者支援につながるはずだ」

 同じように、家庭の主婦も罪悪感を抱いています。

 自分は被災者のために何もできないという無力感。仕事という形で社会に参画していない後ろめたさ。これらを、唯一残された「消費で経済を回す」という究極の方法で正当化をすることで、かろうじて抑え込んでいるのです。