We should be all classical

 以上で述べたのは、別に目新しいことでも、奇抜なことでもない。すでに1940年代に、経済学者が認識していたことである。これは、「第二次世界大戦の戦費を戦時国債で賄うか、それとも戦時増税で賄うか」という問題に関して議論されたことだ。ポール・サミュエルソンは、「大砲や戦車を作る資金を戦時国債で調達したとしても、戦後の国民が負担を負うのではない。負担を負うのは、今の国民だ」と言っている。

 ところで、不完全雇用状態(ケインズ的経済)では、これとは異なる結論になる。国債発行時にクラウディングアウトが起こらないので、他の需要を犠牲にすることには、必ずしもならない。国債発行で財政支出を増やすことは、有効需要の追加を意味し、経済を拡大させる。それによって、「無から有を作り出す」ようなことができるのである。

「国債を発行した時点で負担が発生する」という上の結論は、古典派経済学が想定する世界でのことである。今後の日本は、電力制約のために生産を拡大できないので、このようなものとなる(古典派経済学が想定する世界は、経済学の教科書では「完全雇用状態」と呼ばれるのだが、この言葉は、今後の日本を表すにはミスリーディングだ。なぜなら、遊休設備や失業は存在し続けるからだ。今後の日本が生産を拡大できないのは、電力のボトルネックによる)。

 “We are all Keynesians now”(「今やわれわれの誰もがケインジアンだ」)。これは、アンチ・ケインズ経済学者として知られるミルトン・フリードマンが、65年に雑誌『タイム』で述べた言葉だ(*1)。2007年以降の世界経済危機の中でも、すべての経済学者がケインズ経済学者になった(私も含めて)。このとき、大規模で急激な需要減少が世界を揺るがせたからだ。

 しかし、事態は急転した。本章の1で述べたように、今後の日本を束縛するのは、供給面の制約である。われわれにとって重要なのは、「クラウディングアウト」になった。その状況で必要なのは、ケインズ経済学ではなく、古典派経済学である。だから、誰もが古典派経済学者になる必要がある(We should be all classical economists.)。そうした発想の転換ができるだろうか?

(*1)Time, Dec.31, 1965

負担を将来に移転したいのなら、対外資産を取り崩す

 ところで、以上の議論は、国債が内国債であることを前提にしている。国債の消化を海外に求める場合には、結論は違ってくる。

 その場合には、発行時点で資源が海外から日本に流入し、償還時点で日本から流出する。つまり、負担を将来時点に移すことができる。家計が銀行から借入をするのと同じようなことになるのである。

 ただし、国債の消化を海外に求めると、日本の償還能力を疑われて額面どおりの発行ができない可能性が高い。それを考慮すれば、日本が海外に持つ資産を売却して日本に持ち込み、その資金で国債を購入するほうがよい。

 この場合には、調達した外貨を売って円を買う取引が必要になるので、円高になる。円高を許容するのであれば、こうした方法で復興資金をファイナンスするのが合理的だ。

 この場合、日本の対外資産は減るので、将来世代が得られる運用収入は減る。このような形で、将来世代が負担を負うのである。

 なお、円高になれば、輸入が増える。これは、国内の生産制約を緩和する働きをする。国内で電力制約のために生産を拡大できないので、輸入によって海外の電力を間接的に購入するわけだ。電気そのものを輸入することができなくとも、このような形で外国の電気を購入するのと同じ効果が実現できる。輸入は、日本国内に希少な資源を、間接的に購入することを意味する。たとえば、小麦の輸入は、小麦を栽培する広大な農地を借りるのと同じことである。日本で電力が不足することに対しては、外国の電力が含まれた製品を購入するのが、最も合理的な解決法なのである。