「いい加減に諦めたらどうだ。上海に残るのはいい。だが、せめて心は、もう解放しなよ」
ジェイスンの声で現実に呼び戻された。彼は隆嗣へ向けて話しているが、目の前にいる迎春のためにも言っているようだった。彼女も微かに頷いている。
「おいおい、そんなお説教を言うために来たのなら帰ってくれ」
「いいや、偏屈者のお前に説教できるのは俺ぐらいしかいないだろ。言わせてくれ。だいたい俺と違って、お前は金儲けに血道を上げるタイプじゃなかった。それなのに、表の仕事も裏の仕事でもがむしゃらに続けてきたのは、上海に居続ける理由を無理やり自分に言い聞かせるためじゃないか」
言われた隆嗣も頷かざるを得ない。かつて日本のバブル社会を否定して中国へ逃げてきた自分が、中国バブルで財を築いた図は滑稽でしかない。
だが、これからは、形の残る実業に費やしていこうと決めたんじゃないか。これもジェイスンの言う通り、自分への言い聞かせに過ぎないかもしれないが、それも俺が選んだ生き方だ。隆嗣は心の中で呟いてみたが、意外と嫌な感情ではなかった。
店の前で客待ちしていたタクシーに乗り込んだジェイスンは、「また会おう」と言い残して去って行った。
そのテールランプが延安路に消えていくのを見送った隆嗣は、店へと踵を返した。そのドアの脇、『クラブかおり』の看板の前で遠慮がちに佇む静かな影に目を向けた隆嗣は、ポケットから取り出したマルボロを差し出した。モスグリーンの制服を着ている影は、目の前にいる男がこの店のオーナーだと知っているので、顔に媚びるような作り笑いを浮かべたまま煙草を受け取り、隆嗣が持つライターの火に顔を近付けた。
「今夜も冷えるねえ」
労わりを含んだ隆嗣の言葉に、制帽の下から煙を吐き出した警備員は無言で頷いた。警察OBたちが経営する保安会社から派遣されている彼も、元警察官だったそうだ。といっても、履歴書によればまだ42歳という年齢で、隆嗣とさほど変わらないはずだが、黒味を帯びた顔色と皮膚の弛みは、老人のような陰影を醸し出していた。
改めて見ると、彼の上体はかすかに右に傾いていた。事故で右膝を痛め、走ることが出来なくなったために閑職へと廻されたあげく、追い立てられるように保安会社への再就職を斡旋されたらしい。
『みかじめ料』替わりだからと諦め、不満顔のまま受け入れた迎春も、無口で存在感を消し去ったような影に、次第に慣れているようだった。保安会社へ毎月5000元を払っているが、彼に渡る給料は1000元足らずに過ぎないと聞かされた迎春は、いかにも警察官上がりという生真面目な男に、幾らかの憐れみを含んだ目を向けるようになっていた。
「ずっと立ったままでは疲れるでしょう。椅子を置いて座れるようにしましょう」
膝に支障を持つという傾斜した身体を見て、隆嗣が申し出た。しかし、その影はかすかに首を振って囁くような声で答えた。
「いいえ、警備をする人間が、座っていては仕事になりませんから」
強盗が押し入る銀行や宝石店ではない、お飾りのお仕着せ警備員なのだ。そんな気遣いは無用だと言いかけたが、その制帽の下に誇りを宿した堅牢な目があるのに気付き、余計なことを言ってしまったと、隆嗣は後悔した。
(つづく)