現代ファイナンス理論は1950年代以降に確率されてきた、比較的新しい学問です。本連載は、100年分の理論の発展とポイントをまとめた新刊『ファイナンス理論全史 儲けの法則と相場の本質』のエッセンスを紹介していきますが、まず、この学問の扉はどのようにして開かれたのか?実は、半生記以上を経て再評価されたある不遇の数学者がその立役者なのです。その人、ルイ・バシュリエの人生と、彼が発見したランダムウォーク理論を分かりやすく解説していきます。
科学的な金融理論、すなわち現代ファイナンス理論と呼ばれるものが成立したのは、1950年代以降のこととされている。ファイナンス理論といっても人によってどこまでの範囲を含めるのかさまざまな考えがあるだろうが、本書『ファイナンス理論全史』ではとくに市場における価格変動のメカニズムや、投資・リスク管理などに関連する金融工学的な分野を主に取り上げていく。金融工学というのは、高度な数学を使った体系的、科学的な金融理論のことである。そうした意味での現代ファイナンス理論の最初に金字塔とされるのは、ハリー・マーコウィッツの「ポートフォリオ選択」に関する1952年の論文であろう。
だが、実はその半世紀以上も前に、現代ファイナンス理論の扉を一度開きかけた人物がいたのだ。当時はまったくの無名で、再評価が進んだ現在でもいわば「知る人ぞ知る」という程度の知名度にとどまっている彼の名は、ルイ・バシュリエ。ナポレオン三世時代の1870年生まれのフランス人である。
バシュリエは、子どものころからとても優秀だったが、その人生は必ずしも順調とは言えなかった。早くに両親を亡くし、兄弟を養うためにかなり苦労したらしい。さらに兵役にとられたりして、好きな数学の勉強や研究に打ち込むことがなかなかできず、名門グランゼコールへの進学の機会も逸してしまったという。すでに20代になってようやくパリ大学で数学を学ぶ機会を得るのだが、学費と生活費を稼ぐために同時にパリ証券取引所で働き始めなければならなかった。そこで、時々刻々と価格が乱高下する金融市場の喧騒に圧倒されると同時に、相場の荒々しい動きを理解するのに自分の好きな確率論が使えるのではないかと思いついたのだった。
そして1900年、彼は「投機の理論」というタイトルで博士論文をまとめた。指導教官は、高名な数学者のアンリ・ポワンカレだった。ポワンカレはバシュリエの論考そのものには高い評価を与えつつも、その論考の対象テーマについては戸惑いを禁じ得なかった。当時、金融市場はカジノのような賭博場と考えられており、数学を用いた学問的探究の場にふさわしいものとは見られなかったのである。
バシュリエはその後、学者としてやや恵まれないキャリアを経たのち、ようやくパリ大学に教授として迎えられる機会が巡ってきた。ところが、その直後に第一次世界大戦が始まり、バシュリエは再び兵役にとられて出征を余儀なくされてしまう。戦後、学会の戻った彼に、さらなる不幸が襲い掛かる。バシュリエのある論文の査読を委託されたポール・レビィという高名な数学者がが、論文には誤りがあると指摘したのだ。こうして、バシュリエは一級の研究者となる道を事実上断たれたことになる。
後年になり、レビィは自分の指摘のほうが間違っていたことに気づき、バシュリエに謝罪の手紙を送った。バシュリエもそれを受け入れたのだが、すべては後の祭りだった。
現在では、この不遇の数学者、バシュリエの1900年の論文こそが、高度な数学を駆使した最初のファイナンス理論として認められている。また、後年の効率的市場仮説や確率計算を使ったオプションの価格計算理論など、現代ファイナンス理論の主要なテーマに通じる考え方が、すでにこの論文に明確に示されている。
バシュリエの業績は発表から半世紀以上も経ってから徐々に再評価されることになる。発表から55年後に米国の偉大な経済学者ポール・サミュエルソンがたまたま目にしたこの論文に驚愕したという話も伝わっている。バシュリエは世に出るのが50年早かったのだ。