ファイナンス理論の歴史とポイントを追っていく『ファイナンス理論全史』より一部ご紹介していく本連載。今回ご紹介するのは、理論と実務が一体となって発展してきたデリバティブと、その理論的発展の歴史の中でも最も特筆すべきといえる、ブラック=ショールズ・モデル(BSモデル)についてです。学界と実業界を行き来する先駆者的存在であり相当風変りだったというブラックと、MITスローン・スクール准教授だったショールズの出会いとは?そして、批判を受け続けてきたBSモデルが今もスタンダードであり続ける理由とは?
金融ビジネスの歴史上とても重要な1973年
1973年は、金融ビジネスの歴史上、とても重要な年である。ブレトンウッズ体制と呼ばれる米ドルを基軸通貨とする国際通貨体制が崩れ、主要国の通貨の交換レートが完全に変動制になったのがこの年だ。また、同年に起こった第四次中東戦争をきっかけにオイルショックが起き、世界経済に多大な影響を与えている。世界経済は激変し、荒れ狂う市場を乗り切るためにイノベーションが求められるようになっていた。
そこで登場するのが金融デリバティブである。IMM(International Monetary Market)という世界で最初に金融デリバティブを取引する取引所がシカゴに作られたのも、この1973年のことである。
デリバティブは、日本語では「派生商品」と訳されている。株や為替、金利など、他の金融商品(これを原資産という)の値動きだけを取り出して売買したり、さまざまなリスクヘッジ手段を提供したりするものである。具体的には先渡取引(フォワード)、オプション、スワップなどが含まれる。一般には複雑で投機的な取引というイメージが強いかもしれないが、企業の柔軟な財務戦略や金融機関の高度なリスク管理に欠かすことのできない重要な役割を果たしている。また、デリバティブの市場規模は今では原資産を上回るほどになっていて、もはやデリバティブ抜きで金融ビジネスを語ることはできないほどに巨大な存在ともなっている。
そんなデリバティブには、とても際立った大きな特徴がある。
それは、理論と実務が一体となって発展してきたという点だ。通常のビジネスでは、まず実務が先行し、理論はそれを後追いするのが常だ。デリバティブも最初のうちはそうだったのだが、やがて理論が新しいデリバティブ商品を生み、デリバティブの急成長が理論の発展を促すという展開になっていく。今では、デリバティブは非常に精緻な数学モデルの上に初めて成り立つビジネスとなっていて、そこではクオンツと呼ばれる理系の専門家が小難しげな数式と毎日格闘するような世界が広がっている。
デリバティブを成り立たせるそれらの理論は金融工学と呼ばれ、もちろん現代ファイナンス理論の重要な一部をなしている。そうしたデリバティブの理論的発展の歴史の中でも最も特筆すべきものが、やはり1973年に発表されたブラック=ショールズ・モデル(BSモデル)だろう。
ブラックとショールズ二人の出会いとは?
フィッシャー・ブラックは、ハーバード大学出身の数学者で、学界と実業界を行き来するいわゆる“回転ドア”の先駆的存在である。寡黙で学者然とした風貌だが、見かけによらず気まぐれで、風変わりな人物だった。学生デモに参加して逮捕され、一時ハーバードを追放されたこともある。また、経済や金融についてはきちんと学んだことさえなかった。
そんな彼が、学界に飽き足らずにアーサー・D・リトルというコンサルティング会社でデータ解析や数値分析の仕事していたときに、MIT(マサチューセッツ工科大学)スローン・スクールの准教授だったマイロン・ショールズと知り合い、共同でオプションの価格理論を研究するようになる。こうしてブラック=ショールズ・モデルが生まれるのである。
ブラック=ショールズ・モデルは、高度な数学を使って導出されたモデルだが、そこから導かれる計算式自体は非常にシンプルで、それを使うと対数正規型の確率分布を前提としたオプションの価格計算が簡単にできるという特徴をもっている。
問題は、将来の価格の確率分布を対数正規分布と仮定することが、はたして本当に正しいのかという点だ。これは、現実の相場は本当にランダムウォーク(厳密には幾何ブラウン運動)なのかという問題に言い換えることができる。
実務的な立場で言うと、この問いに対しては、二段階の答えがある。
現実の相場変動は対数正規分布によく似た形をしており、したがって実務的には対数正規分布を仮定することでおおむね問題はない、というのが第一の答えだ。そしてこれが、ブラック=ショールズ・モデルが実際に実務で使われていくことになる大きな理由の一つである。しかし、第二の答えでは、とくに価格が大幅に変動することを想定するケースで、対数正規分布が必ずしも現実の動きを正確に捉えきれないことがある、という答えになる。この第二の点は、長年の論争の種となっていくのである。
批判を受け続けたBSモデルは
なぜスタンダードとなったのか
ブラック=ショールズ・モデルは発表されて以来、あまりに現実を単純化しすぎていて正確性に欠けるという批判を受け続けてきた。それはランダムウォーク理論の妥当性をめぐる果てしない論争の発展版とも言えるものだった。だがこの論争では、批判する側も実証研究や理論モデルを携えながら対案を提示するという建設的な議論が含まれていた。
こうしたブラック=ショールズ・モデルへの建設的批判から、その欠点とされる部分を補うような新たな理論モデルが、これまた次から次へと生まれてくることになる。ブラック=ショールズ・モデルへの批判や対抗モデルの登場が、その後の金融工学の急速な発展の原動力になったと言えるだろう。
その一方で、どんどん高度で複雑な理論モデルが提示されていったにもかかわらず、現在に至るまでブラック=ショールズ・モデルは最もスタンダードなオプションのプライシング・モデルとして使われ続けているという点も見逃せない。
実際のところ、ブラック=ショールズ・モデルの欠点や限界は今では広く認識されており、とくに複雑なオプションを計算する場合などには誤差が大きくなったり、そもそも計算ができなかったりといった問題がある。だから、より高度で複雑なデリバティブを扱う金融機関では、ブラック=ショールズ・モデルに加えて別のさまざまな理論モデルを併用している。
だが、比較的単純な普通のオプションだったらブラック=ショールズ・モデルで計算すれば十分なのだ。それに、ブラック=ショールズ・モデルはオプションを扱う人々にとっての共通言語であり、いわばインフラのような役割を果たしている。なぜ、多くの批判を集めたブラック=ショールズ・モデルがこのように使われ続けているのか。その最大の理由は、とにかく簡単で使い勝手がよいことである。何を計算しているのかをイメージしやすいのも長所だ。かなり高度な数学が使われてはいるのだが、ブラック=ショールズ・モデルによるオプション価格の計算式自体は非常にシンプルで、少し慣れた人ならエクセルさえあれば、それこそあっという間に計算できてしまうレベルなのだ。
これに対して、ブラック=ショールズ・モデルの欠点を補うべく生まれてきた複雑な理論モデルは、往々にして計算が難しく、直感的にもイメージしにくいものが多い。それに、正しい計算結果を導くために適切な値を設定しなければならないパラメータが、複雑なモデルになればなるほど多くなる。そうすると、それらのパラメータをどうやって推定するかという問題が頭をもたげてくる。つまり、複雑なモデルを使いさえすればただちに正確な計算結果が導かれるというような単純なものではないのだ。複雑なモデルが正しく機能するためには、さまざまなスキルやテクニックが必要であり、次第に誰もが使いこなせる代物ではなくなってくる。
こうして、ブラック=ショールズ・モデルはスタンダード・モデルとして不動の地位を築いていったのだった。それは、ブラック=ショールズ・モデルが完全な理論モデルだと考えられていたからではなく、人々が簡便さや分かりやすさを優先した結果である。
しかし、現実的な手段としてブラック=ショールズ・モデルが使われ続けるうちに、モデルに内在する欠点や課題に対する意識は薄れていく。そして、いつの日か、ブラック=ショールズ・モデルでは捉えきれない現実の相場の荒々しい一面が、モデルに安住しようとする人々に襲いかかってくることになる。その話はあらためて。