アートを通した魂の共鳴

 私は博物館や美術館に行くと、魂を感じる。

 「スピリットが住んでいるな」と思う。

 同じ古代の石像でも、思わず手を合わせたくなるようなスピリットが住んでいるものもあれば、ただの石像、からっぽの空き家になっているものもある。

 私にとってアートは、作品の中に神獣や守護獣たちが住んでいるスピリットハウスみたいなものだ。

 「天地の守護獣」がニコルさんにしっぽを振ったのは、私がつくり上げたあとに狛犬の魂が天からやってきて、「ここは居心地が良さそうだから、ちょっと住んでみよう」と、作品の中に宿ってくれたからだと感じる。

 「天地の守護獣」は狛犬たちのスピリットハウスになっていたから、ニコルさんに答えることができたのだ。

 自分が魂を込めた作品をつくると、見えない世界からやってきた魂が宿ってくれる。そこで初めてアートは輝き出す。人とつながる力を持つ。

 それが素晴らしい作品であれば、一つの魂ではなく、いくつもの魂が宿る。いってみれば、スピリットのシェアハウスだ。

 真言宗の開祖である空海さんの書を見たとき、私はそれを感じた。

 この書には、たくさんの守護獣、神獣、魂、妖精が宿っていると。まるでたくさんのスピリットが滞在する、すがすがしくて大きな家のようだ。

 伊藤若冲さん作品も、スピリットのシェアハウスだと思う。

 あれだけの作品を残した彼は、アニマル・コミュニケーターのような存在だったのかもしれない。

 また、私たちの目に若冲さん作品は動物を描いているように見えるけれど、若冲さんは動物たちの形から、魂や仏といったものを見ていたんじゃないだろうか。

 そうであれば水中カメラも存在しなかった時代に、海の中で泳ぐタコの姿をありありと描き出すことができた謎が解ける気がするのだ。

 ある個展で、会場内にいたスピリチュアルな人に、「小松さんの前世は、たぶん、伊藤若冲だと思うんです」と突然言われたことがある。

 自分の前世など考えたことがないし、強いて言うなら「うーん、虫かな?」くらいの意識しかなかった私だから、「前世が若冲」というのが本当かどうかはどうでもよかった。

 ただ、動物を通してスピリットを描き出す天才とつながりがあると言われたことが、素直に嬉しかった。

 空海さんや若冲さんにはまだ遠く及ばないが、アーティストである私の役割は、スピリットが喜んで宿りたくなる家、つまり彼らの依り代としてのアートをつくることなのだろう。

 私は小さな頃からずっと神獣の存在を感じていた。

 特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、聖なるものの存在や見えない世界はあると信じており、大人になってからはその学びとして、タイに行ったり、ユダヤ教の考え方を学んだり、仏教の住職や神道の宮司といった方々に教えをこうようにしている。

 「魂って、そもそもなんだろう?」

 そんな疑問がふくらんでいた二〇代後半に、タイの聖者から、こんなことを教えていただいた。

 「魂とは成長するものです。大切なのは肉体を磨くことではなく、魂を磨くことです」

 魂の成長と聞いて、はっとした。

 私は魂の存在を信じていたから、ずっと魂を込めた絵を描こうと必死だった。色について学んだり、画材について研究したり、心身を研ぎ澄ますために瞑想をしたりしていた。

 だが、それは肉体や技術的な成長のためであり、魂の成長を意識していなかったのだ。

 当然だけれど私は現実の世界を生きていて、肉体はもちろん重要だ。体がなければ絵は描けない。

 手も、足も、目も使う。呼吸するために肺を使い、心臓だって使っている。

 この体、この心、この命を使って絵を描いている。しかし、本当の意味で私に絵を描かせてくれるのは、魂なのだ。

 それなのに私は、いつのまにか魂をないがしろにして作品をつくろうとしていた。

 いけないと思った。たとえそれで絵がもっと上手になったとしても、それは私の「役割」ではない。

 絵が上手になるよりも、祈りのレベルを上げなければいけない。

 魂は、成長する。いや、魂を成長させよう。

 それから、私の絵は、大きく変わり始めた。二七、八歳の頃だった。

 私の考えでは、どこかに聖なる世界がある。狛犬のような守護獣や、龍のような神獣は、その見えない世界と私たちがいる世界をつなげてくれる存在であり、神の使いだ。

 たぶん、遠い昔には聖なる世界はもっと身近で、お使い役も身近だったのだろう。だから狛犬、スフィンクス、グリフィンといったお使い役は、世界中で石像として制作され、幾千のときを経て残されている。

 彼らはお使い役だから、聖なる世界のメッセージを、私たちに届けてくれるだけではない。この世界にいる私たちの目に見えない祈りを、天に届けてもくれる。

 だからこそ私は、神獣や守護獣を描いている。スピリットが居心地良く宿ってくれるような作品を目指している。

 幸福にもその絵に魂が宿ってくれたら、見えない世界へのドアが開く。

 私の絵を見てくださる人たちが、「あ、この絵、いいな」とふと思ってくださったとしても、それは私の絵の力ではない。私の絵に宿った神獣たちや私自身の魂と、見てくださるその人の魂が共鳴したということだ。

 絵の中に宿った神獣がまっすぐに見つめるのは、聖なる世界だ。

 絵を見てくださる方の魂が、私の絵を通して神獣たちとつながり、神獣たちは人々の魂に問いかける。「あなたの魂は美しいですか?」と。

 その意味で、私の作品は入口にすぎない。みんなのために大きくドアを開ける、みんなの魂や神獣が住む見えない世界とつながる触媒となる。それが私の役割だ。

 魂が共鳴している人は、何がいいのかもわからずに、ただ作品を見つめていることもある。

 空海さんや若冲さんの作品の前で魂を揺さぶられる人は、作品に宿ったたくさんの聖なるものと共鳴し合っているのだと思う。

 私も先人たちが残しているようなスピリットが宿る作品を死ぬまでつくり続けられたら、と願っている。それはまた、私の魂の成長にもなる。

 魂は成長する。聖なるもの、見えない世界とのつながりに想いを馳せれば馳せるほど、魂が成長する感覚が確かにあるから筆をとる。

 私は、アートに特別な関心がない人や、普段は美術館に行かないという人にも、自分の作品を見てもらいたい。

 なぜなら、魂を持たない人など、一人もいないから。