良心的な専門家ほど曖昧な表現をする
ある患者さんと向き合ったとき、薬の話になったことがあります。
その人が薬のことについて執拗に尋ねてくるので、私はその人の要求に応えようと、脳のどの部分にどのような効果が出るかなど、専門的な話を図やデータを使って合理的に説明しようと努力しました。
ところが、その人が求めていたことは違っていたようなのです。
あるとき、その人が私に告白したのは、医療ではない診療を施す施設に通っているというのです。そこでは、既成の医療を否定し、これさえやれば必ず治るという治療が堂々と謳われているようです。根拠のほどは私から見てもさっぱりわかりません。
どうやら、その患者さんが私から聞きたかったのは、薬の厳密な説明ではなく「この薬は必ず効きます」「これさえ飲めば必ず治ります」という太鼓判を押す言葉だったのかもしれません。
結局、患者さんは既成の医療からオカルトまがいの手法へと、一気に極端な方向へ流れてしまいました。薬の効果について私が太鼓判を押さなかったために、今までのやり方ではだめだ、西洋医学はあてにならないと主張する人のほうが正しいと思い込んでしまったのだと思います。
一般的に、断定はしないというのが科学者の基本的な態度です。その態度に忠実であろうとする良心的な専門家であればあるほど、専門家以外の人にはっきりとしたことを言えなくなっていきます。
「こうであるとも言えるし、こうでないとも言える」
「○%の人にこういうデータが出ている」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」
「ある病気になってしまった人の、特定の要因との因果関係ははっきりしない」
専門家としては良心的に対応したつもりでも、曖昧な言い方をする専門家を一般の人は信用しなくなります。現在の「専門家不信」は、こうした齟齬が最大の要因になっているのではないでしょうか。