「この前は自己紹介をしそこなってしまいました」
早苗は森嶋と向き合うと、前回とはまったく別人のような口調で名刺を差し出し頭を下げた。
長野から帰るときは、森嶋は駅まで送ってもらって電車で帰ったのでほとんど話していない。
名刺には長谷川建築設計事務所、一級建築士とある。
「建築家なんですか。それも長谷川新之助氏の事務所だ」
長谷川新之助は森嶋も知っている世界的な建築家だ。その事務所に属しているということは、建築家として優秀なのだろう。
学生時代から村津の相手をしていると、アルコールにはかなり強そうだった。村津がつぐ酒は拒まず飲んでいる。それでいて酔った様子はない。
「私は学生時代に田中角栄先生の『日本列島改造論』を読んでね。いたく感動した。それで建設省に入省したんだ。日本を新幹線網で結び、狭いながらも世界一の国にしようと意気込んでたよ。入省当時は寝食を忘れて仕事に没頭したもんだ」
1時間もすると村津が饒舌になった。
「それを今のように国土交通省なんてわけのわからない名前にしてしまった。私の目指した日本はこんな国じゃなかった」
早苗は慣れているらしく、適当に聞き流している。
「森嶋さんはなぜ国交省に入ったんですか」
早苗が森嶋に向き直って聞いた。
「僕は電車が好きだったんです。小学校時代は電車の運転手に憧れてたんですがね。新幹線の模型なんか数十作りました。それでなんとなく入省かな」
本当はそうではなかった。
森嶋は小学生時代を神戸ですごした。そのとき、遭遇したのが阪神・淡路大震災だ。自分の住んでいた町が崩れ、燃え、多くの人が亡くなった。森嶋の友達も亡くなり、家族を亡くし、家を失った友達も多い。森嶋の家も半壊で、結局は建て直した。子供であったが心が震えた。
崩壊した神戸の町を見て、二度と地震などで壊れない町を造りたいと思ったのだ。しかし、今でもその思いを抱き続けているのか。何度か自問したが、そう言い切る自信はなかった。
「動機なんてそういうもんだ。しかし時間と共に変わっていくものでもある。私は日本中の山にトンネルを掘り、川に橋をかけ、鉄道を血脈のごとく走らせることを夢見て入ったが、いまじゃコンクリートから人へ、なんて言葉がもてはやされてる。しかし、案外そっちのほうが正しいのかなという気さえしてくる。国の方針なんてのは、状況を見て柔軟に帰るべきだ。入省時のきみの考えも、今じゃ変わってるはずだ」
森嶋は早苗に向き直った。
「早苗さんは、なぜ建築家に」
「高校のとき、家族でヨーロッパに行ったとき魅了されたの。建築というより、古い街並みにかな。そんな町に住みたいって。それで勉強してるうちにね」
3人は居酒屋で2時間ばかりを過ごした。これから娘のマンションに行くという村津と別れて、森嶋はマンションに帰った。
「パパ、長谷川先生と室山社長が時間を作ってほしいって」
店を出て駅に向かって歩き始めたとき、早苗が声を低くして言うのが聞こえた。
どこかにあった負け犬という村津のイメージは急激に変わりつつあった。
(つづく)
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