マツダは生き抜くための生存戦略として重要な示唆を与えた

 世の中には実に多くの価値意識があった。とにかく丈夫で走ってくれること。気楽にA地点からB地点まで移動できること。あるいは自分の社会的・経済的なステータスを示すアイコンとして機能すること。当初想定していた以上の価値意識が世の中には存在していることがわかった。

 そして、マツダを支持する層に共通する自動車に対する価値意識は、以下のようなものだった。

 決してクルマはステータスではないが、単なる移動手段でもない。と言ってもレースなどで大パワーで競い合うというよりは、むしろ街中を日常的に運転すること自体が楽しく、自分自身が思うままに操れることが何よりの歓び。

 クルマで走った後も、駐車場に駐めたクルマを何度も振り返っては見惚れ、運転の余韻に浸るといった経験が少なくない。このような価値意識を持つ人たちが世の中の自動車購買層に10%前後存在していたのである。

 もし、その層で相対的安定シェア(約40%)を取れたとするならば、市場シェア4%。これがマツダが取るべき市場シェア4%の根拠である。そしてマツダ自身、同じような志向を持つ者たちが集まった集団だった。

「人馬一体」のようなクルマとの一体感を最も重視したクルマづくり。そしてそれを実現する職人的なこだわり。それは、マツダのクルマの開発に関わる人たちが無意識ながらも受け継ぐ自他ともに認めるDNAみたいなものであった。

 マツダが自ら定める「価値」を求める市場が、EV・自動運転車時代にも存在し続けるのか、それはわからない。もしかしたら、その時代においては4%もないかもしれない。

 しかし、このようなマツダならではの「存在価値」というのは必ず支持する消費者が存在し、より自らの価値を高めることによって、マツダはEV・自動運転車時代にも輝く自動車メーカーになる可能性を秘めている。

 自分は世界に何をもたらすべきなのか? その「世界」とは、何も世界のすべての人々である必要はない。「ブーンブーンとものを動かすときのときめき」を感じ、「運転することは自分を表現すること」である人々、であっても良い。

 そして、こうした人々に対して、その想いを共有するマツダだからこそ、日常の生活で「心がときめくドライビング体験を」提供していく。それはもしかしたらマーケットとしては小さいかもしれないが、自動車メーカーとしては大きくないマツダだからこその「存在価値」と言える。

 自動運転車時代の勝者は誰か? それはもちろん、そのメインストリームで上位に立つ者が順当な勝者だろう。しかし、このマツダの例は、内燃機関の自動車からEV、そして自動運転車という「エネルギー」と「モビリティ」の進化によるディスラプションにおいて、生き抜くための生存戦略として重要な示唆を与えている。

 もちろん、マツダが今後、自動運転車時代に独自の光を輝かせる勝者となるかどうかはわからない。しかし重要なのは、マツダが独自の「存在価値」を見定め、その「存在価値」を全社一丸となって創り上げていったことが、現在の好調へとつながり、来るべきディスラプションに備えているという事実である。

運転することが当たり前の時代には重視されない価値が、自動運転の時代にはそれを愛する人たちから大きな支持を得られる可能性を秘めている。