日本人は「言葉に隠された前提」に気づけない
ところで、言葉の絶対化は、なぜ空気に結び付くのでしょうか。最大の理由は、多くの言葉の中に実はすでに「前提」が隠されているからです。
例えば、「日本版マスキー法」というラベル=言葉には、アメリカの環境改善法をモデルにした法案という前提があります。逆にいえば、この法案が環境問題を意識してつくられたという“意図された前提”が潜んでいるのです。
先の劇薬というラベルなら、危険であるという一般的な前提があり、さらにはラベルと中身が一致しているという前提も隠されています。
意図的に設計された言葉には、「隠された前提」があり、言葉の成立条件を疑わないことは、相手の醸成したい空気(前提)に誘導され、操られることを意味するのです。言葉による空気の詐術は、言葉に隠された前提を利用して人を騙しているのです。
狂気の「大本営発表」で破綻した旧日本軍
事実と異なる発表を、現在でも「大本営発表」と表現することがあります。本来は、1937年11月から1945年8月まで行われた、戦況に関する発表を指しています。
大本営発表のデタラメぶりは、実に想像を絶する。大本営発表によれば、日本軍は太平洋戦争で連合軍の戦艦を四十三隻沈め、空母を八十四隻沈めたという。だが実際のところ連合軍の喪失は、戦艦四隻、空母十一隻にすぎなかった。つまり、戦艦の戦果は十・七五倍に、空母の戦果は約七・六倍に、水増しされたのである(*4)。
書籍『大本営発表』(辻田真佐憲・著)では、実際にサイパン島での戦闘に参加して重傷を負い、米軍の捕虜になった平櫛少佐の戦後回想の言葉も紹介しています。
『必勝の信念』『大御心を奉じ』『一億一心』『八紘一宇』『聖戦完遂』『断乎撃滅』『向うところ敵なく』『勝利はあと一歩』……何というむなしい言葉の羅列であろう。官僚の作文だけでは戦争はできない。こういう無内容・無感動の言葉を適当に操作していれば、知らぬまに勝利がころげこんでくる、とでも思ったのであろうか(*5)
発表された言葉や数字は、現実と一致していなければすべて虚構(真っ赤なウソ)ですが、日本人は、「言葉=現実として絶対化する」、言霊信仰のような思考をしがちです。しかし一部の大衆は、戦局の悪化に気付いており、噂は全国に広がっていました。
「今日本は負戦さばかりだそうですね。発表ばかり勝つた様にしてゐるが、本統[ママ]は負けて居るとの事だ」(1942年12月28日、熊本県内の投書)(*6)
「サイパンに出撃した連合艦隊は全滅した」「『ラヂオ』を聞いてどうするか。軍報道部の『ニュース』は嘘ばかりだ」(*7)
言葉=現実という感覚を持つ日本人は、言葉と現実を突き合わせる習慣が希薄です。
しかし、言葉と食い違う現実は常にあり、思いや思考と現実も、本来まったく別の存在です。言葉の絶対化、感情移入の絶対化は、大本営発表を異常な魔法に仕立て上げ、現代でも日本人を口先だけで何度も騙すことができる状況をつくり上げているのです。
[1]「文化的感情」の臨在感的把握による支配
[2]命題を絶対化する「言語」による支配
二つの空気は、人の心の中で結び付けられた、何らかの意味や感情を、拘束力に変換することで、空気として大衆を誘導し、視野を狭める効果を発揮します。
日本人は、命題や言葉、心の中で結び付けられた意味と現実を同一視する、原始的な感覚を保持したまま、技術革新を成し遂げて近代化に成功した稀有な国です。
このような国で、言葉と行動がまったく違っても、恬として恥じないウソつきがいれば、社会に大混乱を引き起こし、国家を未曽有の破滅に誘導できてしまうのです。
山本七平氏が挙げた空気支配の3つ目のパターン、[3]の「新しい偶像」による支配については、次回、解説するようにします。
*4 辻田真佐憲『大本営発表』(幻冬舎新書) P.4
*5 『大本営発表』P.196~197
*6 『大本営発表』P.145
*7 『大本営発表』P.194~195
(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)