明治以降の日本人の中では、精神と現実が混然となったまま今に至っている。この「感情=現実」という感覚、自分が正しいと思うことが相手にも正しいと信じ、相手を自分と同一視する感覚は、一体どんな問題を引き起こすのか? 明治から戦中・戦後、そして今日も変わらない日本人の精神性とは? 15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。
日本人は自分の感情と現実の区別がつかない
私たち日本人は、「空気」という妖怪によって思考と行動を縛られています。どのように支配されているのか、その「支配構造」について、山本七平氏は『「空気」の研究』の中で、次の3つのキーワードを使って解説しています。
[1]臨在感(臨在感的把握)
[2]感情移入
[3]絶対化
今回は、[2]の「感情移入」について解説していきます。山本氏は、感情移入という言葉について次のように述べています。
イタイイタイ病を取材してその悲惨な病状を目撃した記者は、その金属棒へ一種の感情移入を行ない、それによって、何かが臨在すると感じただけである(*1)。
研究者と記者の違いは、記者が患者の悲惨さを取材して、心の中に恐れの感情を持っていたことです。その結果、自分の恐れの感情=現実と考えて、カドミウム棒に感情移入(自己の精神の投影)をした結果、何かが臨在していると感じたのです。
「感情移入」=自分の心や感情が、すなわち現実だと感じること
この連載では、臨在感とは、「因果関係の推察が、恐れや救済などの感情と結び付いたもの」と定義しました。何かの石を床の間に飾って毎日拝めば、良いことが起きる=祈りが通じた、悪いことが起きる=祈りが足りなかった、という因果関係として考えてしまう習性が日本人にあるのです。
しかし因果関係の推察そのものは、人の心の中だけの出来事です。物に何かが臨在すると感じるには、心の中の感情が、すなわち現実であるという感じ方、心を外部に投影して気付かない、感情移入というプロセスが必要になるのです。
思考と現実が、どこかでつながっているという感覚
精神分析の専門家である岸田秀氏は、山本氏との対話をまとめた書籍『日本人と「日本病」について』で次のように述べています。
精神分析でも、「思考の全能」と名づけていましてね、幼児は思考の全能で、言えば実現するという思考形式を持っている。つまり、言語と現実が切り離されてないんですね(*2)。
言霊信仰、精神主義などと言葉を換えても表現できますが、精神内部と現実が、なぜか明治維新以降の日本人の中では混然となったまま今に至っています。やや情緒的な表現をするならば、日本は「祈りが通じると考えている」社会だと言えるかもしれません。
この「感情=現実」という感覚、感情移入の構造を逆に捉えると、人の心の中を規制すれば、現実を変化させることもできるという考え方につながります。これは、空気による人々、社会全体の拘束・弾圧にも通じる発想でしょう。
日本人は親切として「自分の正しさ」を押し付けてしまう
感情移入の“絶対化”は、自分の想いが現実そのものだと固く信じ込ませます。
『「空気」の研究』の第1章では、飼っているヒヨコにお湯を飲ませてすべて殺してしまった老人の話が紹介されています。「寒いときにお湯を飲むと温まって体にいい」という人間側の命題を、違う生き物のヒヨコに当てはめたことで起こった悲劇です。
「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ(*3)」
(引用元である塚本虎二氏の随想、『日本人の親切』にある言葉)
感情移入を絶対化して外部に押し付ければ、相手に悪をなし、時に殺すことにさえなります。自分が正しいと信じることが、相手にとっては間違っている場合があるからです。
寒い日に温かいお湯を飲むと体に良いのは人間であり、ヒヨコのような小動物には逆に間違いだと明確に線引きする。感情と現実の健全な区分けが必要なのです。
ヒヨコにお湯をのまし、保育器に懐炉を入れるのは完全な感情移入であり、対者と自己との、または第三者との区別がなくなった状態だからである(*4)。
自分が正しいと思うことが相手にも正しいと信じ、相手を自分と同一視する感覚。「感情移入の絶対化」とは、自分の心と外部(現実)を区別できない状態なのです。
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)P.37
*2 山本七平/岸田秀『日本人と「日本病」について』(文春学藝ライブラリー)P.89
*3 『「空気」の研究』P.38
*4 『「空気」の研究』P.39