バブルの「種」は
市場自体に内蔵されている

『バブルの物語』ではバブル発生の際には必ず「一見新奇で大いに儲かりそうな金融の手段」や「金融の天才」が登場すると繰り返し述べられる。

 そしてバブルが崩壊すると、つい最近まで称賛を浴びていた金融手段や天才に怒りや非難が集中することになるわけだが、ガルブレイスは実はそれこそが大問題だと言う。

「論議の的とならないのは投機それ自体、またはその背後にある異常な楽観主義である。『投機の結末では、真実はほとんど無視される』。これが最も注目すべきことなのである。」

「投機には多くの個人や機関が関係していたわけであって、過ちや愚鈍さや行き過ぎの責任を特定の個人または会社に帰するのは無難なことであるけれど、社会全体とか金融界全体のせいにするのは穏当でないと考えられるからである。
 多数の人がうぶで、愚鈍でさえあったことは明らかである。しかし、そのように言ってしまうと、知性は金(かね)につきものであるという前述の仮定に真っ向から反することになる。金融界はこうした無節制な過ちを犯すほど低能ではない、という想定を崩すことはできないのだ。」

 つまり人々は、新奇な金融手段や天才をスケープゴートにしてしまい、それを無闇に信奉した社会や金融界の過ちを認めようとしないというのだ。まさに「真実はほとんど無視される」のである。

 ガルブレイスはそして「市場」そのものにこそ、バブル発生の原因があるとする。

「自由企業制の立場・教義において広く認められているところによれば、市場は外部的な影響を中立的かつ正確に反映するものだとされている。市場自体に過ちの種が内蔵されていて、その内部的な力で市場が動かされる、というふうには考えられていない。これは古典的な信仰である。したがって、崩壊の原因として、市場の外部にある何か──それがいかにこじつけであるにせよ──を見つけ出す必要が生じる。あるいはまた、何らかの形で市場が濫用され、そのために市場の正常な働きが抑えられた、と説明する必要が生じるのだ。」

 まさに、市場を万能視する新古典派を批判し、現実に即して経済社会を究明してきたガルブレイスの面目躍如たる指摘と言えるだろう。

(つづく)