[1]ASD(自閉症スペクトラム障害)

ASDとは、こだわりが強かったり、感覚過敏などのほかに、社会性(他人との関わり)に問題がある発達障害です。以前はASDのなかで、言葉や知的能力に問題のないタイプは、高機能自閉症(他人への関心に乏しいタイプ)や、アスペルガー症候群(他人に関心はあるがコミュニケーションが個性的なタイプ)などに分類されていました。

このような子たちは、知的機能が高いので、自分なりに努力してなんとか集団生活に適応していこうとします。そのために、障害が表面化しにくいという面があります。小学校に入ってから、グループで行動できない、言外の意味が理解できず、とんちんかんなことを言ったりするなどの問題が目立ってきて、はじめて障害が疑われることもあります。

ほかの発達障害にも共通することですが、親が、その障害の表面的な特徴を見えなくしようと一所懸命になってしまい、自己流で対処して、子どもも親もしんどくなっているケースがよくあります。他の子と比べて落ち込んだり、悲観したりすることのほうが、障害そのものよりもずっと不幸な状況を作り出しているケースが多々あるのです。

できないことをさせようと、幼い子どもの多くの時間をそこに費やてしまうと、子どもの頃に経験すべき、たとえば遊びを通した楽しい時間を味わうことなどを経験しそこなうリスクがあるでしょう。たとえば、ひとりでいるのが好きな子を、他の子と同じようにみんなで遊べるようにしようと干渉する親は多いです。もちろん親は、かわいそうだからとか、将来いじめられるのではないかと心配してやっているのです。

しかし、実際には、子どもは親が思っているほど不幸ではなく、かえって他人と一緒のほうが落ち着かなかったり、苦しかったりします。ひとりで落ち着いて過ごすほうが、その子の心の成長にもよいケースも多いのです。

苦手なことの克服については、療育の専門家に支えてもらう。親がする場合にも、自己流ではなく、専門家のアドバイスに沿った形で行い、くれぐれもやりすぎないようにする。親は、子どもを喜ばせる、リラックスさせることに力を注ぐほうが、長い目で見ると、子どもにも親にもよいと私は考えます。

できないことをできるようにすることよりずっと大切なことは、子どもがこの世の中を好きになることです。生きることを、好きになることです。これはどんな子にも共通することですが、発達に障害のある子ではとくに大切です。

 

[2]ADHD(注意欠陥多動性障害)
成長にはバラつきがあって、活発な男の子などは、早くから親が厳しく接してしまうと、自己肯定感が下がったり、せっかくの長所である活発さ・好奇心の強さ・1つの物事への集中力などが育ちそこなってしまいます。

「他の子がちゃんとできているのに、いつまでも自分の子はできない……」

親の焦る気持ちはよくわかります。しかし、行動力や好奇心が先に育ち、自分をコントロールする能力は遅れて育ってくるのだとしっかり意識して、子どもに向き合うことをすすめます。

衝動的な行動が多かったり、人の話が聞けなかったりすることを「病気」ではないかと思って病院を受診すると、すぐに内服治療をすすめられるケースがあります。

一方で、内服は必要なく、子どもにいろんなことをきちんとさせようとする周囲の環境をゆるめて、見守っていくことが大切だと説く専門家もいます。

数十年前と比べて、とくに都会で暮らす子どもは、周囲と合わせて整然と行動することが強く求められるようになっています。田んぼの中の道を学校に行って、野原や空き地で遊んでという時代から、マンションで暮らし塾や習い事に通う時代へと、子どもの生活環境は変わっています。

そのために、昔ならクラスに何人もいた「ちょっと落ち着きのない子」が、ADHDと診断されてしまうようになったと主張する専門家も多いのです。

私が出会ってきた大半のケースや、自分の子たちも含めて、自分をコントロールする能力は、だんだんと追いついて成長してきます。それまでは、親は、子どもの自尊心を守ってあげることが大切です。

できないことをできるようにしようと必死で子どもをしつけるより、「そのうちできるようになる」と気長に見守るほうが、子どもの力は伸びていくと思います。

 

[3]LD(学習障害)
障害の顕著な子はわかりやすいのですが、軽度で、かつ賢い子などは、なんとかがんばって自分の障害に対応していってしまうので、発見が遅れがちです。

たとえば、文字が読めないのに、他の子の声を聞いて暗記して乗り越えたり、他の子よりも何十倍も努力してなんとかついていこうとすることもあります。そんなときに、子どもはさぼったり、なまけているわけではないのに、教師や親が低い評価をしたり、叱ったりすることで、子どもは二重に傷ついてしまいます。

私も、不登校の相談にこられたのに、よく聞いていくと、文字がちゃんと見えていない、具体的には「視力が悪くはないが一部の文字を見分けるのが難しい」タイプのLDだったというケースを数例経験しています。

そのようなケースでは、子ども本人にしてみれば、他の子にはどう見えているかがわからないのです。「どうして自分はみんなと同じようにしているのに、本を読むのがこんなに難しいのだろう」とか「なんで自分はこんなに字が汚いんだろう」と、子どもなりに悩んでいました。

いずれも、それまで「もっとまじめにきれいに字を書きなさい」とか「何回も読んだら、もっと上手に読めるよ」などと叱っていた親が、「あなたのせいではなかったのね。まちがって怒ったりしてごめんね」と謝ると、ほとんどのケースで子どもは元気になり、療育(それぞれの子どもの特性に合わせて読み書きや計算などの指導を受けること)に通うようになりました。

「親が自分を理解してくれたということがいちばん嬉しかった」と、あるLDの子は言いました。

つい最近まで「なまけている」「頭が悪い」などと先生からも誤解されて、自分自身でも自分をダメな人間だと思い込まされてきたLDの子どもたちは、たくさんいました。2000年頃までは、LDを知っている先生のほうが少数派だったでしょう。

しかし現在では、LDの原因や療育の研究が進んできており、LDについての理解も広がってきました。たとえば、『怠けてなんかない! ゼロシーズン—読む・書く・記憶するのが苦手になるのを少しでも防ぐため』(品川裕香・著/岩崎書店・刊)は、その他の「怠けてなんかない!」シリーズとともにおすすめです。

最近では行政の支援体制も少しずつ整ってきましたし、対応してくれる医療機関も増えてきています。療育の方法も研究が進んでいます。たとえば、タブレットでの音声入力や読み上げ機能など、学習を支援してくれるIT機器も身近になりました。

それでも、子どもにとっていちばん頼りになる存在は親です。親が味方になってくれているという思いは、彼らが困難に立ち向かう最も大事な支えになります。

 

障害のある・なしにかかわらず、親としては、子どもが生きていくことを好きになるように、家でラクにすごせるように支援することを第一に考えていくことが、長い目で見た場合に、もっとも子どもを幸福にすると私は思います。