いずれのケースでも、親は子どものために必死で応援しようとしてはいます。しかし、子どものほうは、いまのやり方でやっていくのが、もうしんどくなっているようです。それでも親は、そのしんどさが見えないかのようにふるまっています。

とにかく、先に進みさえすれば、いまの問題はなんとかなるから、と思い込んでいる。いや、思い込もうとしているように、私には思えました。

「高校にさえ入れたら」
「留年さえしなければ」
「大学にさえ合格できたら」
「医師にさえなれたら」

とにかく、いまの目の前の壁を乗り越えたら、なんとかなるからと、先に進めようとします。しかし、高校に進んでも、大学に進んでも、それだけで問題が解決するわけではありません。

さらに最後のケースでわかるように、医師になっても、そこでしんどくなることはありえるのです。これは、少し冷静に考えたらわかることだと思います。

「そうしたほうがいい」と言われたことを上手にこなしてきた優等生でも、どこかで壁に向き合うことになります。自分がしたいことであれば、しんどくてもがんばれるでしょう。しかし、自分が何をしたいのかよくわからない状態のままでは、いわゆる「修羅場」と言えるような試練に出会ったとき、乗り越えられない可能性が高いでしょう。

そのような場合には、いったん立ち止まって、自分の気持ちやその先の人生についてじっくり考えてみるという姿勢は、むしろ正しい対処法だと言えるのではないでしょうか。

子どもが自分から動き始めるのを待つこと。また、たとえ親から見たらつまらないことであっても、そして子どももすぐに興味をなくしてしまうとしても、子ども自身の興味があることや、やりたいことを大切にすること。そのような接しかたが親には求められます。

その理由は、結局、そのような接し方によってこそ、子どもが自分は何をやりたいのかに気がつく可能性が高まるからでしょう。

そして、立ち止まったり、やり直したりするのに、遅すぎることはありません。そのような多くの例が、みなさんの周りにもたくさんあるはずです。