「WHAT」と「WHY」が欠けると人間は壊れる

「WHAT=目的」がわからず、「WHY=理由」もはっきりしない営みに人は「意味」を感じることができません。

 19世紀ロシアの文豪、ドストエフスキー(*3)は、自身の収監体験をもとにして書いた『死の家の記憶』において、たとえば「バケツの水を他のバケツに移し、終わったらまた元のバケツに戻す」といった「まったく意味を感じることのできない仕事」こそが「最も過酷な強制労働」であり、これを何日もやらされた人間は発狂してしまう、と書き残しています。

 レンガを焼くとか畑を耕すといった作業は、それが肉体的にどんなに厳しくても、最終的に家が建ったり、野菜ができたりすることに意味を感じられるのでまだ耐えられるけれども、意味のない労働には誰も耐えられないというのですね。

 こういった指摘は、私たち人間にとって本当に重要なのは、労働の「量」よりも、実は「質」の方なのだという示唆を与えてくれます。

 この問題はそのまま「量にこだわるオールドタイプ」「質にこだわるニュータイプ」という対比にもつながります。

 翻って考えてみれば、現在の日本ではいろんなところで「働き方改革」の名のもとに、労働時間という「量」の削減に関する取り組みが進んでいますが、その一方で、仕事の「質」に関する議論があまりにもないがしろにされているという印象を拭えません(*4)。

 モノが過剰になり、意味が不足している時代において、私たちはなぜ働き続けるのか。こういう時代において「仕事を通じて幸福になる人」を増やすためにも、私たちがあらためて考えなければならないのは、私たちの仕事が本来的に有しているべき「意味」をどうやって回復させるか、ということなのではないでしょうか。

「量」に関する議論はシロクロがすぐにはっきりするので、深く考えることを嫌がる人ほど安易に飛びつく傾向がありますが、現在の日本では多くの領域において「量的改善」の限界効用がほとんどゼロになりつつあります。

 このような世界においては仕事の「量」の問題だけでなく、「質」の問題、つまり仕事の「WHAT=目的」や「WHY=理由」にしっかりと目配りすることが必要になります。

日本では「HOWのリーダーシップ」が重用された

 経営におけるこの3つの論点、すなわち「WHAT」「WHY」「HOW」に関して考えてみれば、これまでの日本企業の強みは「WHAT」でも「WHY」でもなく、徹底的に「HOW」を磨き上げることによって形成されてきたということがわかります。

 なぜこれでここまで勝てたのかというと、「目指すべき姿=WHAT」はすでに欧米先進企業がまざまざと目に見える形でそれを示してくれており、「目指すべき理由=WHY」もまた、そのゴールを達成することで幸福になれると誰もが考えていたからです。

 このような状況において、リーダーからの「HOW」の指示に対して、そもそも「WHATは何なんですか?」とか「WHYは何なんですか?」という質問を出すような輩はむしろ競争力を削ぐ原因となったでしょう。

 ところが1990年代の前半になって、この状況が大きく変化します。日本企業が欧米先進企業に追いついたことで、これまで明示されてきた「WHAT=目指すべき姿」が喪失されたのと同時に、経済的に豊かになったにもかかわらず、「幸福の実感」が得られていないことで「WHY=働く意義」の説得力もなくなってしまったからです。

 しかし、あれからすでに30年が経とうかというのに、相変わらず日本のリーダーの多くは「HOW」にこだわるばかりで、「WHAT」と「WHY」を共感できるかたちで示せていません。

 このような状況に至って、なお「HOW」にばかりこだわるオールドタイプは、周囲の人々のモチベーションを破壊し、組織のパフォーマンスを低下させることになるでしょう。

 一方で、このような時代において希少な「意味」を形成するために「WHAT」と「WHY」を構想し、語るリーダーは、周囲の人々からモチベーションを引き出し、組織のパフォーマンスを向上させるでしょう。

(注)
*3 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年11月11日~1881年2月9日)。ロシアの小説家・思想家である。代表作は『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』など。レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。
*4 ちなみに、日本の総労働時間は中長期的には極めて明確な縮小傾向にある。厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によれば、昭和40年代には概ね2200~2400時間程度だった総実労働時間は、平成20年以降には概ね1700~1800時間となっている。