子どもに「自由」はない。なぜか?
「自由主義が、行動を制限すると言っておきながら、自由の制限には当たらないとする根拠は何か? それは、子どもがまだ『自由を持っていない』と考えるからである」
「たとえば、ここにふたつの箱があったとしよう。そして、一方にはお菓子が入っているが、もう一方には爆弾が入っており開けたら死んでしまうとする。さて、こうした箱がふたつあって、どっちがどっちなのかわからない状態で好きな方を選んでいいよ……と言われたとき、果たしてこれは『自由な選択』だと言えるだろうか?」
「いいや、我々は通常こういう選択を『自由』とは呼ばない。むしろ、不自由な選択だと言えるだろう。自由主義が『子どもが自由ではない』というとき、まさにこの状況と同じであると主張する」
そりゃまあ、そうか。幼児が高層マンションの手すりに乗って遊んでいるとき、僕たちは―きっと自由主義者も―絶対その行動を止めるだろうけども、それが幼児の自由を奪ったのだとは誰も考えない。
だって、幼児は、その行為がどれだけ危険でどんな結果を招くのか、わかっていないからだ。幼児は、自分の意志で危険な行為を自由に選んだわけではない。だから、自由主義は、その幼児の行動を制限することを正しいと言えるわけなのか。でも、そうだとすると……。
「あの、子どもが自由を持っていないということの根拠は、選択できるだけの知識や能力を持っていないからということなんですよね。その場合にのみ行動を制限することが正当化できるのだとしたら……、崖があることを知らずにそっちに向かう人や、麻薬の危険を知らずに打っちゃう人も、ある意味、子どもと同じで、行動を制限してもいいということにならないでしょうか?」
図らずも倫理の発言を擁護する結論になってしまったが、一方で、自由の制限はしていないという結論でもあるのだから、ミユウさんの発言、自由主義とも整合しているとも言える。
おお。なんとなくで始めた流れだけど、ちゃんと両者の間を取るようなところに落ち着いた。我ながらうまく着地できた気がする。と、自分的には満足して周囲の反応をうかがったが、残念ながらミユウさんの表情は晴れなかった。それどころか、とても不満げだ。
次回に続く。