『経済学はどのように世界を歪めたのか』は、経済学がどのように日本の金融政策に「悪影響」を与えてきたのかを、当代随一のアナリスト(日経ヴェリタス債券部門・3年連続第1位)が経済学の源流から直近の金融政策までをつぶさに追い、解き明かした意欲作。その緻密な分析と日本の社会・文化的背景にまで至る洞察は、発売と同時に各所から注目を集めている。ここでは同書の読書ガイドとして、「プロローグ」を一部改編しお届けする。

経済学への「もやもや感」

1988年、時は日本経済がバブルの高い山の頂に向けていよいよ加速を始めた年、私は慶應義塾大学の経済学部を卒業した。当時はまだ経済学部の必修科目にマルクス経済学が入っていたような時代だったが、慶應の経済学部は、その中では今で言うところの「主流派経済学」を比較的熱心に教えるところだと言われていた(当時は「近代経済学」という言い方が一般的だった)。

私は極めて不真面目な学生だったので、当時の慶應の経済学教授の質を云々できる資格などまったくないのだが、世間的に言われていた評価からすると、まあそれなりのものではあったはずである。

しかし、大学で初めて経済学というものを学ぶほとんどの学生が持つと思われる「“消費者の効用”って自分には該当するのだろうか?」、「自分は本当に“合理的期待”なんて持っているのだろうか?」といった疑問は、その優秀な慶應の教授陣の説明を受けても一向に解消することはなかった。自然科学者であった父親譲りなのか、自身は文科系の学生ではあったが物事を理詰めで考える習癖があり、経済学の考え方というものが何か論理を歪曲しているような印象を持った面もあったかもしれない。

それらの疑問がもたらす「もやもや感」は、「経済学」というものに対して直感的な不信感を持たせるものでもあった。それがゆえに真剣に勉強をしなかったというのは単なる言い訳に過ぎないが、結果的に非常に中途半端な経済学の勉強しか終えないまま、当時の時代の空気でもあったのだが、卒業後は深く考えることもなく金融業界に進んだ。

入社したのは当時四大証券といわれていた大手証券のうちの一社の日興證券で、その調査部門である日興リサーチセンターの事業調査部に配属された。今で言うところの「株式アナリスト」が所属する部署で、私は財務分析や経営分析の専門家になるべく社会人としてのキャリアをスタートさせた。担当業種は自動車部品業界であった。もし、そのまま株式アナリストとしてのキャリアを歩んでいたら、大学時代に経済学に対して感じていたあの「もやもや感」を思い起こすこともなく現在に至っていたかもしれない。

しかし、入社3年目で株式アナリスト稼業からは早々に足を洗うことになった。人事異動で、機関投資家向けの債券売買を行う部署に移ることになったのだ。日経平均株価が3万8915円をピークに下落し始めてからすでに10ヶ月ほどが経過していたが、長期国債の金利は10年物でまだ8%程度あり、金融引き締めの最終局面にあった。後から言われたのは、しばらく日本株市場は厳しく、証券会社もこれからは債券のビジネスを拡大しなくてはならないので、社内で大規模な人材配置の変更が必要になったのだそうである。債券部門への異動を特に希望していたわけでもない一介の若手社員が、会社全体の、というよりは業界全体の大きな転換の流れに乗って債券の世界に足を踏み入れることになったわけである。

債券? 国債? 長期金利? 最初は右も左も分からぬ状態からのスタートだったが、しばらくすると、株式にとってのファンダメンタルズ(=基礎的条件)が企業収益や財務状況であるのに対し、債券にとってのファンダメンタルズはマクロ経済なのだということが分かってきた。

1990年代の債券市場

今の日本の債券市場は当時とはかなり様相が異なるが、1990年代前半の債券市場では、毎月発表される「鉱工業生産指数」、「マネーサプライ」、「機械受注」、「貿易収支」、あるいは四半期に一度発表される「日銀短観」といった経済データに反応して、現物、先物市場ともに日々大きく変動したものである。

これらのデータが発表されるは、ディーリングフロアには張り詰めた空気が漂い、ディーラーやセールスが端末の画面に代表的な数値(ヘッドライン)が流れてくるのを固唾をのんで見守っていた。経済学部を卒業していたとはいえ、私は債券部門に異動した時点では、「鉱工業生産指数」という名称くらい耳にしたことはあったものの、実際にそれがどういうフォーマットで発表され、市場がその膨大なデータの山の中の一体どこに注目して変動するかなど、詳しく知るよしもなかった。

日本が「主流派経済学の実験場」となった経緯を解き明かした衝撃の1冊とは

機関投資家向けの債券営業の仕事に数年間携わった後、私は1994年に調査部門に戻り、今度は債券市場の分析と予測を担当することになった。今で言うところの「ストラテジスト」という仕事である。その部署で、私は初めて本格的に内外のマクロ経済データを自ら分析し、マクロ経済と債券市場の関係についての考察を始めることになった。

当時の日本ではまだ債券市場の分析といっても、それほど精緻で定型的な分析手法が確立されていたわけではなかった。そのため、まずは内外の経済指標の分析から始めて、金融政策、財政政策、政治動向、イールドカーブの変化から投資家動向、種別毎の債券金利のスプレッドの変化まで、債券市場に関連する材料を片っ端から調べては、市場予測の材料として機関投資家向けに提供するというような仕事を行っていた。内外の教科書的なものはもちろん参考にしたが、「金融政策と長期金利の関係は?」、「財政政策とマクロ経済の関係は?」、「債券需給とイールドカーブの関係は?」といったことを自分の頭で一から考え、理解してゆくことが必要であった。そのため、債券市場にとってのファンダメンタルズであるマクロ経済について、大学生がする勉強のような表面的な理解でなく、実質的かつ本質的な理解を追求していくことにもなった。

1994年といえば、日本経済がバブル崩壊後の深い景気後退からいったん回復し、このまま景気の回復が続けば、すでに問題が指摘され始めていた不良債権問題も自然に解消に向かうのではないかという「楽観論」が一部には聞かれていたような時期であった。

この頃、債券のディーリングフロアで毎月発表される経済指標を誰もが一喜一憂しながら見つめていたのは、この「楽観論」を果たして信じてよいものかどうかということに最大の関心を寄せていたがゆえであった。結論からいえば、この「楽観論」は数年後には完全に否定し去られることになる。1997年、準大手証券の三洋証券、都市銀行の北海道拓殖銀行に続き大手証券の一角であった山一證券が破綻して、日本の金融危機が一気に表面化するのである。

「経済学者vs実務家」の構図が本格的に浮上した“翁−岩田論争”

この頃、いわゆる「翁−岩田論争」と言われる金融政策を巡る大きな論争が起きた。マクロ経済についての見方を債券市場の現場で学びつつあった私にとっても、これは非常に鮮明な印象を残す論争であった。

大学の経済学部の講義で、「消費者の効用?」、「合理的期待?」といった事柄ほどには疑問を持たなかったものの若干理解しにくかった概念の一つに、「ここで中央銀行がMを右にシフトさせれば」というものがあった。いわゆるIS−LM分析などでも出てくるものだが、中央銀行が自由に貨幣供給量(=M)を増減させるという前提の解説がされており、素人の大学生にしてみれば、「中央銀行はMをどうやって自由に動かすのだろうか?」という素朴な疑問は持ちつつも、「それは何かのやり方で動かすのだろう」という程度に納得したものであった。

しかし、債券市場の現場で、中央銀行(=日本の場合は日本銀行)が日々資金調節を行い、それに応じて金利の上下動が生じるメカニズムを体感した後に、この「Mを動かすと」という前提を改めて考え直してみると、「消費者の効用?」、「合理的期待?」といったこと以上に大きな疑問符が頭に浮かんできたのである。

「翁−岩田論争」は、当時、日銀スタッフであった翁邦雄と上智大学教授であった経済学者の岩田規久男との間で行われた論争である。この論争において、岩田規久男は、経済学の教科書に書いてある通りに日銀が貨幣供給量を増加させることによって、現下の景気後退やインフレ率の鈍化を反転させることができると主張した。これに対して、翁邦雄は、日銀は狭義においても広義においても貨幣量を完全にはコントロールできないと主張したのである。

日本の経済政策議論において、「経済学者」対「実務家」という対立軸が初めて本格的に浮上したという意味において、この論争は、その後二十数年間にわたって展開する「経済政策と経済学者」に関わる問題の嚆矢といってよいものであった(翁邦雄は実務家とはいえ、経済学者としての資質においても岩田規久男に劣っているとはまったく思えなかったのだが)。

そして、『経済学はどのように世界を歪めたのか』で詳しく触れていくことになるが、この論争は、経済政策の中でも特に「金融政策」に絞り込んで経済学者が政策批判を行うという意味でも、従来にはなかった論争のパターンを提供することとなった。米国においては、1960年代から70年代にかけての「ケインジアン」と「新しい古典派」との意見対立の主要な部分に金融政策はもちろん含まれていたが、経済学者の政策批判が「金融政策」一点に絞られて行われ始めたということでいえば、世界的な観点からしても、この「翁−岩田論争」は大きな転換点であったといえる。実際、この後、2010年代の現在に至るまでのグローバルな経済政策議論の中心的なテーマは、間違いなく「金融政策」を巡るものになってきているからである。

実務家と世界の経済学者は「翁−岩田論争」にどう反応したか

この論争が始まった時、おそらく日本の債券市場で実務に携わっていた参加者の多くは、翁邦雄の言っていることは当然すぎることであり、岩田規久男という学者は一体何を訳の分からないことを言い始めたのだろうと感じていたのではないだろうか。

日銀が自由に動かせるマネーの量というのは、日々の準備預金の額であり、それも一ヶ月間の「準備預金積み期間」を通してみれば、民間銀行は必要以上の準備預金は保有したがらないので、日銀は準備預金の金額ですら恒常的に増減させることは容易ではない。銀行が必要以上の準備預金を保有することを短期金融市場では「ブタ積み」と言い慣わしていた。

ましてやM2やM3といったより広義の貨幣集計量(=マネーサプライ)は、銀行の信用創造などのプロセスを経て増減するため日銀がコントロールできる範囲は限定される、というのが金融実務の観点からの常識であった。私自身、この論争に最初に接した時、「経済学者は、ずいぶんと強引なことを言うものだな」というのが最初に持った感想であった。

日本が「主流派経済学の実験場」となった経緯を解き明かした衝撃の1冊とは

私を含め、日本の債券市場参加者にとっても、そして日本の経済学者たちにとっても、この「翁−岩田論争」は、その後の日本経済と経済政策の行方を示唆する一つの重要な分岐点であった。そして、この頃から欧米の経済学者たちも、バブル崩壊後の日本経済や日銀の金融政策の動きに対して少しずつ関心を向けていくことになる。

さらに言えば1990年代以降の日本経済や金融政策についての議論は、その後の欧米の経済政策にも間接的に大きな影響を及ぼしていくのである。しかし、欧米の経済学者たちは、「翁−岩田論争」自体は、意図的かそうでなかったかは別にして、ほぼ無視したようである。

欧米の経済学者の間では、翁邦雄の主張は「明らか」に間違っており、翁のような考え方こそが日本経済にデフレーションをもたらしている元凶なのだと断じるような傾向もあった。欧米では、翁のような見方を「日銀ビュー」として片付け、それが誤りであることを前提に議論をするようなところがあった。このような認識は、現在でも欧米の経済学者コミュニティおよびその影響下にあるウォールストリートの一部の参加者たちの間では根強く残っており、ある種の定説になっている。

象牙の塔から出てきた経済学者たち

ここで、「翁−岩田論争」以降20年以上にわたって「理論家」と「実務家」との間で延々と続けられてきたいわゆる「リフレ論争」そのものに、今さらまともに組して議論をしようなどというつもりはない。2013年以降に日銀が始めた「量的・質的金融緩和(=QQE)」は、ある意味で、この長きにわたる論争のかなりの部分に対してすでに結論を出している(否定的な意味で)。この問題に関する本書における主要な関心の一つは、なぜ、ある時期から翁のような考え方あるいは「日銀ビュー」が現実の政治あるいはマクロ経済政策の現場で批判を浴び、「リフレ派」の主張が選択されるようになっていったのかという「プロセス」の問題である。

そこで、まずこの問題の前段ともなっていく経済学史および金融市場史とも言うべき事柄について、主に第1章から第3章で述べていきたいと思う。これらの章では、18世紀の欧州で始まり米国で隆盛を誇ることになった「経済学」という学問をいかに「相対化」して見るのかということをテーマにしている。

「経済学を相対化する」という作業を通じて、バブル崩壊後の30年間近くにわたる日本の「経済」と「経済政策」の流れを理解する上での重要なヒントを得ることができるだろう。

日本は、先進国の中で1930年代以降初めて大きな金融バブルの崩壊と信用危機の状況を体験した国である。日本という国のこの約30年間における変遷は、当然のことのように聞こえるかもしれないが、「経済」と「経済政策」の要素を抜きに語ることはできない。逆に言えば、「経済」と「経済政策」の視点から見てこそ、初めてこの時代における日本という国そのもの、あるいは日本社会全体の姿や変容といったものが見えてくるはずである。本書における最終的な目的意識もむしろそちらのほうにあると言ってよいだろう。その意味で、本書は経済についての「分析もの」、あるいは景気や市場の「予測もの」ではないということを最初に断っておく必要がある。

「翁−岩田論争」なども、経済政策を巡る一論争というよりは、1990年代以降のより大きな日本社会の変動期に向けた序章段階での一幕という位置づけで捉えることができる。政策論争というものは、どのような時代にあっても、単なる技術的な議論というよりは、その時代の社会的な在り方や変化の方向を反映しているものであることが多い。経済政策を巡る論争は専門的でテクニカルな要素をより多く含んではいるが、やはり社会的あるいは政治的な対立関係を反映したものになっているケースが多いのである。

日本においても、この「翁−岩田論争」が行われた時代を境にして、経済学者が象牙の塔にこもる存在ではなく、より積極的に社会と関わり政策にアクティブに影響を及ぼしていこうという存在に変わっていく。

それは、欧米先進諸国全般において1940年代から50年代にかけてジョン・メイナード・ケインズが果たし、1970年代を中心とした時期において米国でミルトン・フリードマンが果たした役割に近いかもしれない。「リフレ派」と言われる経済学者や官僚たちの多くはフリードマンをアイドル視していた。そして、必ずしも「リフレ派」というわけではないが、「新自由主義思想」の布教者とでも言うべき立場の経済学者たちも、同じような時期に続々と世の中の表舞台にあらわれてくる。

日本で遅ればせながらそういう時代が訪れたのが1990年代以降ということになるわけだが、それは同時に、経済学という学問が社会的、政治的な文脈の中でこそ存在し得る特殊な社会科学であるという事実を、日本においてもより鮮明に確認してくる時代であった。

その意味で、経済理論あるいは経済政策は、社会の思潮を反映する鏡のようなものであるとも言えるだろう。「社会と経済学および経済政策の関係」、これがまさに、『経済学はどのように世界を歪めたのか』を通じた主要テーマである。このテーマについて、「経済ポピュリズム」というキーワードを設定して、同書の後半部分で主に議論を展開している。

『経済学はどのように世界を歪めたのか』の構成

『経済学はどのように世界を歪めたのか』は、第3章までは、経済学のやや特殊な視点から見た通史のような形になっている。第4章には、1990年代以降の日本の経済政策についての議論のための予備知識という意味で、金融政策の概説を挿入している。

そして、第5~7章において、具体的に日本における経済政策なかんずく金融政策の変遷について述べている。この三つの章では、経済学や金融政策を中心的な題材として採り上げ、日本社会の「大分岐」、より広く言えば先進国社会の「大分岐」とも言うべき構造変化について述べている。「現代の金融政策を限界まで相対化していくと、このように捉えることができる」という一種の社会論となっているはずである。第7章で使用しているキーワードは「経済ポピュリズム」と「サイレント・マジョリティ」の二つであり、この章が本書における最も重要な結論部分の含まれる章といってもよい。

最後に、第8章では、現在における経済学の限界と新たな経済学には何が求められるのかということについて述べ、エピローグでは、私の専門でもある国債市場についての見方と共に日本の経済政策がどう在るべきかということについて述べている。

「経済学それ自体」についての内容から「社会と経済政策との関わり」といった内容まで、読者は本書が採り上げている議論がかなり拡散しているとの印象を持つかもしれない。しかし、このような拡散のさせ方をしなければ、結論部分にたどり着くことができないという認識のもとであえてそういう手法を採っている。

このように書くと、これから経済学や経済理論についての何か非常に抽象的な議論を始めようとしているのかと思われてしまうかもしれないが、実際に読み進めていただければ、決してそういうことはないことが分かっていただけると思う。本書で最も心がけたのは、金融市場の現場で生の経済や市場の分析を行ってきた人間の視点で、そして何よりもバブル崩壊後の日本社会の激変をリアルタイムで経験してきた一人の日本人としての視点で書こうということである。

その意味で本書は、専門の経済学者の方々からは、「何を訳の分からないことを書いているのだ」という批判も少なからず受けるだろうと覚悟はしている。あるいはメディアや識者の方々から、「債券市場のアナリストがなぜ畑違いのことについて書いているのか」という批判がなされることも同様に甘んじて受けるつもりである。

実際、私自身は専門の経済学者ではないし、あくまでも経済ウォッチャー、金融市場ウォッチャーであるという立場をはっきりさせておきたいとも思う。つまり、専門的な観点からどのような批判や反論があろうとも、少なくとも、「こちら側からはこう見る、あるいは見えている」ということしか書いていないつもりである。ここで「こちら側」と言っているのは、「市場」であり、「経済の現場」であり、さらに言えば、「複雑な現実の社会」である。

なお、最初に断っておかなくてはならない点としては、私自身には政治的な立場は何もなく純粋にノンポリの人間であるということである(この「ノンポリ」という言い方自体、かなり時代がかった表現だが)。所属する金融機関の利害とも一切何の関係もない立場で、この本を書くことになった。金融政策やより広範な経済政策といったものについて自分自身の理解をより正確にしたいという目的でこの本の執筆を始めたという部分もあり、言ってみれば本書は自分の勉強ノートのようなものでもある。このかなり無定形な勉強ノートのようなものに、自由で気楽な気持ちでお付き合いいただければ幸いである。
 

森田長太郎(もりた・ちょうたろう)
SMBC日興証券 チーフ金利ストラテジスト。慶應義塾大学経済学部卒業。
日興リサーチセンター、日興ソロモン・スミス・バーニー証券、ドイツ証券、バークレイズ証券を経て2013年8月から現職。日本の国債市場に30年近くにわたり関る。グローバル経済、財政政策、金融政策の分析などマクロ的アプローチに特色を持つ。日経ヴェリタス債券アナリストランキングは第1位(2017年~2019年)。著書に『日本のソブリンリスク』(東洋経済新報社・共著)、『国債リスク 金利が上昇するとき』(東洋経済新報社)がある。