ナシーム・ニコラス・タレブの新作『身銭を切れ』が発売された。タレブといえば、『ブラック・スワン』でサブプライムローンの破綻を言い当てた人物、また舌鋒鋭くこの世の真理を突きつける「現代の急進的な哲学者」として知られるベストセラー作家だが、そもそもなぜタレブの言葉に多くの人が耳を傾けるのだろうか。不確実性についても詳しい経済評論家・佐々木一寿氏に、その理由を紐解いていただいた。第3回は、いよいよ新刊『身銭を切れ』について。タレブの怒りの矛先と、その理由とは。
ナシーム・ニコラス・タレブは、不確実性を考慮しない人たちを嘲笑し(『まぐれ』)、ブラック・スワンの存在を予言し(『ブラック・スワン』)、それへの対処法を論じ(『反脆弱性』)、不当なリスク転嫁を非難する(『身銭を切れ』)。
時に辛辣なのはタレブの特徴ではあるが、最新作の『身銭を切れ』のキレ方には尋常ではないものを感じさせる。タレブは何に対してそれほど怒っているのか。
リバタリアンの倫理性と「身銭を切れ」
天下の変わり者で知られるタレブは、一般の人たちから見ればなかなか想像がつかないかもしれないが、じつは超絶的なモラリストでもある。人の道、つまり倫理に反することに関しては非常に厳しく反応する。理解されにくいのはその倫理観が世間一般の通念上のものと異なるところがあるからだが、タレブの著作同様、じつは論理的には非常に筋が通っている。
タレブの倫理観を私なりに解説すると、彼はまず極端なリバタリアンである。「リバタリアン」は自由至上主義者と解説されることもあるが、個人の自由の追求とそれに伴う自己責任を引き受けることがその身上となる。
タレブは著作の中で一貫して「フェアかどうか」を重要視するところがある(本文では“対称性”と表現される)。リバタリアンであれば、「自由で自発的な選択」と「それによる帰結を自身で受け入れること」こそが、フェアネスを担保すると考える。
このあたりは、タレブがトレーダーという職業を選んだこととも関係するだろう。トレーダーは当然ながら、リスクを理解したうえでポジションを構築し、そのペイオフ(ここでは損得)を受け入れる。オプションなどの金融商品のなかには複雑なものもあるが、理解できないものや得意でないものには手を出さない自由もある。この自由が自己責任論を支えるが、それが担保されていない場合は、仮に得をしていようがリバタリアンとしては筋が通らないのだ。
金融関係者や専門家が不確実性を理解していない場合に、タレブが激怒する理由は、不確実性が存在するにもかかわらず、顧客にそれをきちんと伝えられないからだ。それでも彼らはしっかりと手数料をとる。そんな彼らは「身銭を切っていないじゃないか!」というわけである。そしてブラック・スワンが訪れたら、顧客は大損するが、金融関係者は手数料を返すことなく生き残る。
「今回はブラック・スワンといって予測不能なものなんですよ。ただ、そんな下落局面で収益の上がる商品もあります、ちょっと手数料はほかのものより高いですが」
上の例は、タレブのロバート・ルービンへの言及から私が即興で作ったものだが、タレブが新著『身銭を切れ』で複合的に言及しているという以下の4要素、
1)不確実性の理解
2)対称性と非対称性
3)非対称情報下のコミュニケーション
4)生き残り
のうち、1)と2)と、4)の一部については当てはまるものと思う。