水の科学――抽出に適した水の秘密
近年コーヒー業界では、水の重要性とその科学的な理解が深まってきました。その大きな契機となったのが、2014年のワールド・バリスタ・チャンピオンシップでイギリス代表のMaxwell Colonna-Dashwoodが行ったプレゼンテーションです。
彼のプレゼンテーションは、イギリスのバース大学に当時勤めていた、Christopher Hendon との共同研究を通して、水がコーヒーの味わいに影響を与える科学的な背景を詳しく説明したものでした。
このプレゼンテーションは業界に衝撃を与え、間違いなく水についての理解を大きく飛躍させた出来事だったと言えます。その当時まで、コーヒーにおける水の重要性は、TDSの数値で語られてきました。
TDSとは、日本語訳で「総溶解固形分」と言います。簡潔に説明すると、水に溶け込んでいる有機物・無機物の総量を示します。つまり、カルシウムやマグネシウムなどのミネラルはもちろんのこと、水に溶けているすべての溶解性物質の総量のことです。
例えば、2009年11月に発表された、スペシャルティコーヒー協会(旧SCAA)による「スペシャルティコーヒーを抽出するための水」というレポートによると、理想的な水のスペックは次の通りに記載されています。
【理想のTDS数値】150ppm
【許容範囲のTDS数値】75~250ppm
すなわちコーヒーの抽出に理想的な数値は、150ppmの水で、許容範囲は75ppmから250ppmとなっています。ちなみに日本の水道水のTDSは、大体100ppm程度です。許容範囲には収まっているわけですが、TDSの問題点は、すべての電解質の総量を示すことはできますが、水の“中身”についてはまったくわからない点です。
そのTDSの違和感に注目したのが、Maxwellでした。彼は、イギリスのバースでカフェを経営しており、その当時は複数のロースターから豆を仕入れ、提供していました。あるとき、ロンドンから仕入れたコーヒーの味わいがおかしいことに気がつきました。
爽やかな酸味や明るいフルーティーなフレーバーがあるはずなのに、まったく味わいが異なっていたのです。抽出に関してできることをすべて試し、そのコーヒーの味わいを改善しようと試みましたが、すべて上手くいきませんでした。
そこで、仕入先のロースターに相談し、問題のコーヒーの再チェックをお願いしたところ、「品質にはまったく問題ない」との返答が返ってきたのです。もちろん、その担当者はキャリアも長いベテランで、嘘をつくような不誠実な人間ではないことをMaxwellも良く理解していました。
そこでMaxwellは、味の違いを生み出している要因は「水」ではないか、という仮説を立てて、バース大学との共同研究に乗り出したのです。
彼らは、どのミネラルがどのようにコーヒーの味わいに影響を与えるのか、徹底的に分析し、その因果関係を明らかにしています。主要なミネラルの味わいへの影響を記しておきましょう。
【カルシウム】主に質感(ボディやマウスフィール)を引き出す
【マグネシウム】主に酸味(フルーティーさ)を引き出す
カルシウムは抽出力の強いミネラルで、コーヒーの濃度を引き出すために重要な役割を果たします。またマグネシウムは、コーヒーのフレーバーを引き出すために欠かせないミネラルです。
カルシウム、マグネシウム共にコーヒーの抽出において重要なミネラルで、それぞれの役割を解明できたのは、非常に大きな成果と言えます。しかし、最も重要な発見は「炭酸塩硬度」の役割を解明したこと、と言えるでしょう。
炭酸塩硬度は、緩衝材のような役割を果たし、pH(ペーハー)の変化に対応する優秀な成分です。コーヒーの味わいをバランス良くまとめてくれる、抽出に欠かせない存在と言えます。
しかし、炭酸塩硬度の値が高すぎる場合は、豊かなフレーバーや酸味を打ち消してしまいます。逆に、炭酸塩硬度の値が低すぎる場合は、エグさ、酸っぱさ、収斂性を引き出し、コーヒーの味わいが酸味主体になります。
先にあげたMaxwellのカフェでの出来事は、まさに炭酸塩硬度の仕業だったのです。TDS値がたとえ許容範囲に収まっていたとしても、炭酸塩硬度に大きな差が生まれれば、コーヒーの味わいを根本から覆してしまいます。
硬度がゼロか限りなくゼロに近い水(蒸留水やRO水)が、コーヒーの抽出に向いていないのは、こうした理由です。したがって、「コーヒーの抽出には蒸留水を!」という広告を見かけますが、ミネラルがなければ、コーヒーの味わいは引き出されませんので、注意が必要です。
では、硬度は高ければ高いほどコーヒーの抽出に好ましいのでしょうか? 実は、硬度が高すぎても、コーヒーの味わいは効率良く抽出されません。
コーヒーの成分を引き出すための水中のスペースが、ミネラルに占拠されてしまうからです。硬度が高過ぎると必然的に炭酸塩硬度も上がり、結果として起伏のない味わいになるため、こちらもおすすめできません。
水を変えると劇的にコーヒーの味わいは変化します。ぜひ異なるミネラルウォーターを使って、好みの味わいを再現できる水を探してみてください。