誰が助けてくれるのか?
──中央銀行がどこからともなくカネを出す

 経済がそんな破壊的な循環にはまってしまったら、助けになるのは、あの存在しかない。国家だ。19世紀に市場社会がはじめて不況を体験したとき以来、影響力のある市民たちの圧力によって、国家は介入を余儀なくされてきた。

 では、国家は何をするのか?

 どんな国家もまず最初に行うのは、金融システムそのものへの介入だ。パニックが広がれば、すぐに銀行は次々と倒産する。倒産を防ぐには、銀行にカネを貸して窓口を開かせることによって連鎖反応を止めるしかない。だが、そんなに短時間で莫大な金額をどう用立てられるのだろう?

 君も「中央銀行」という言葉を聞いたことがあるだろう。どの国にも、というか、より正確にはどの通貨にも、中央銀行が存在する。中央銀行の名前は国によって違う。イギリスではイングランド銀行と呼ばれるし、アメリカでは連邦準備銀行、オーストラリアではオーストラリア準備銀行だ。ヨーロッパではそのものずばりの欧州中央銀行。

 名前はともかく、中央銀行とは国家が所有する銀行で、そのお客さんは銀行だ。この中央銀行からおカネはやってくる。途方もなく莫大な量のおカネが。

 君の口からいまにも飛び出そうな質問が何かわかる。

「でも、中央銀行はどこからそんなおカネを持ってくるの?」

 その答えは、「どこからともなく、パッと出す」。

 中央銀行がそれぞれの銀行の口座残高に数字を付け加えるだけだ。

 起業家におカネを貸す銀行は、起業家が借金を返せるようになるまで、その債務のリスクを負う。国はもっと信用も信頼も厚いけれど、基本的な仕組みは同じで、銀行が健全になるまでその債務のリスクを負うことを宣言するわけだ。

国家の新しい(ようでそうでもない)役割

 ここで、普通の銀行と中央銀行にはひとつ違いがある。

 中央銀行が何もないところからおカネを生み出すとき、つまり未来から交換価値を借りてくるとき、それは利益が欲しいからではない。銀行を救い出し、黒魔術によって破壊されそうになった経済を元に戻すことが、中央銀行の目的だ(銀行の黒魔術については、本書第4章参照)。

 中央銀行は、普通の銀行にとっての「最後の貸し手」になる。するとそこに面白い関係が生まれる。中央銀行は普通の銀行に対して何らかの権限を持つようになるのだ。

 中央銀行はどの銀行を救い、どの銀行を破綻させるかを決められる。ということは、黒魔術を抑えるように銀行を指導することもできるはずだ。

 しかし現実には、指導がもぐら叩きの様相を呈するようになった。普通の銀行は、中央銀行が定める規制や指導をバカにし、あらゆる手を使ってその網をかいくぐろうとする。中央銀行は火事の広がりを必死に止めようとするが、普通の銀行は放火の罪に問われることもなく、中央銀行は仕方なく新しいおカネを流し込み、燃え盛る火を消し止めなければならなくなる。

 中央銀行には銀行の暴走を止める力がないのではないかという一般大衆の不安を鎮め、取り付け騒ぎを未然に防ぐため、やがて国家はもう一歩踏み込んだ政策を取るようになった。人々の預金について、もし銀行が破綻したら国が返済することを保証したのだ。

 もちろん、中央銀行が預金者におカネを返すには、どこからともなくおカネを生み出すしかない。

 ところで、私はさっきから「どこからともなくおカネを生み出す」という表現を何度も使ってきた。君はそんなのおかしいと思っているはずだ。意味がよくわからず、居心地の悪い気分になるだろう。

 君だけじゃなく、ほとんどの人がそう感じるはずだ。「どこからともなくおカネを生み出す」なんてごく最近の現象ではないのか、と。テクノロジーが発達したから、銀行や国家が口座残高にゼロを付け足すだけでおカネが生み出せるようになったのではないか、と。昔のおカネはもっと本物で、目に見えて、もっと実体のあるものだったのではないか、と。

 だがその考えは、まったくの間違いだ。

 メソポタミア時代に農業を営んでいたナバックさんに話を戻そう(ナバックさんについては本書よりの抜粋記事「一部の人だけに「お金」が集まり続ける理由」を参照)。

 ナバックさんは働いた分に値する貝殻をもらっていた。その貝殻には、収穫が終わったらナバックさんが受け取れるはずの穀物の量が刻まれていた。数字を刻むのは、支配者に雇われた役人だ。数字の刻まれた貝殻と、中央銀行の発行するおカネは、基本的に同じものだ。

 メソポタミア時代の支配者は、貝殻に刻む数字を勝手に決めて、いくらでも好きなだけ貝殻を与えることができた。中央銀行がやっていることと、そう違わない。

 当時もいまも重要なのは、貝殻に刻まれた数字や、口座残高の数字を、人々が信用できるかどうかだ。土地の生産性を高め、国家を豊かに安定させ続けることで、作物は約束通りに分配されるし、通貨は信頼に値すると示すことだ。国家の新しい(ようでそうでもない)役割と言ったのは、そういう意味だ。

 とはいえ、支配者だけでなく民間の銀行までもがどこからともなくおカネを生み出せるようになったことは、極めて現代的で、市場社会に特有の現象だ。

(本原稿は『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』からの抜粋です)