しかし、無審査の公募展だったにもかかわらず、結局この作品が展示されることはありませんでした。公募展の実行委員たちは、「これはただの便器だ。アートではない」と判断し、展覧会場に飾られるべきではないと考えたのです。
デュシャンは実行委員の1人だったわけですが、自分が「R・マット」であるということはひた隠しにしたまま、素知らぬ顔でほかの委員たちによるこの判断を見守っていました。
彼が行動に出たのは、そのあとのことです。
公募展が終わると、彼は突然、仲間とともに発行していたアート雑誌に《泉》の写真を掲載したのです。展示されることがなかった《泉》は、この雑誌記事によってついに人々の目にさらされることになりました。
だから、みなさんが《泉》を見て、「え、これがアートなの!?」と呆れるのは決しておかしな反応ではありません。むしろ、デュシャンはあえて議論を巻き起こそうとして、この作品を発表したのだと思います。
もしもこの《泉》が最初から「おお、すばらしい作品だ!」と受け入れられ、例の公募展にすんなりと展示されていたら、彼の狙いは大きく外れていたことでしょう。
便器を鑑賞するなんて、よほどの物好き
2018年、上野の東京国立博物館で、デュシャンの作品を中心とした企画展が開催されました。《泉》は展覧会のポスターにも使われ、目玉作品として扱われていました。
私はこの展覧会に行った際、人々がこの作品をどのように鑑賞するのかをついでに観察してみたことがあります。
《泉》は、腰の高さほどの白い台の上で、ガラスケースに覆われて展示されており、たくさんの人がこの作品の前で足を止めていました。なかには、この作品の姿を目に焼きつけようとするかのように、腰をかがめて作品に顔を近づけている人もいます。ガラスケースをゆっくりと一周し、いろいろな角度から作品を観察している人もいました。
鑑賞者たちは、作品の形態・質感・表面のわずかな傷・サインなどをじっくりと見つめていました。
そんな鑑賞者たちの姿を観察しながら、私は考えたのです。
「もしもデュシャンがこの場に居合わせて、人々のこのような姿を見たら、どんなリアクションをしただろうか?」
美術館で真面目に鑑賞していた方々には悪いのですが……きっとデュシャンは鼻で笑っただろうと思うのです。実際、彼は《泉》についてこう語っています。
「最も愛好される可能性が低いものを選んだのだ。
よほどの物好きでないかぎり、便器を好む人はいないだろう」
前述のとおり、《泉》に用いられた便器は、デュシャンがつくったものではなく、とくに珍しい造形のものでもありません。唯一、デュシャンが自ら手を動かした「サイン」ですら、黒いインクで雑に(それも、偽名が)書かれているだけです。
美術館で立派なガラスケースに入れられ、いかにも「どうぞ、よーく鑑賞してください」といわんばかりに展示されてはいたものの、やはりそこにあるのは「ただの便器」だったのです。