具体的には、

・現状把握において、現在の状況が過去においてどのような認識のもと、どのような対策が施され、その結果がいかなるものであったか、といった歴史的認識が踏まえられていること。

・自分の扱っている範囲が、どのような領域のどの問題の解決についての言説であるかということを明確に意識した言説であること。領域認識がしっかりとしていること。

・提案している内容が絵空事ではなく実行可能かどうか。副作用を生むとすればどのようなことになり、それは対処可能かどうか、といった実行イメージが存在していること。

 などが重要なポイントである。

真の専門家か、エンタメ的コメンテーターか
見る者の情報リテラシーが問われる

 間違っても、外国での成功事例や外国の権威者の言説をもとに、歴史的認識や領域認識、実行イメージなどがまったくないままに(あれば可)、ただただ、わが方においても他国と同様のグローバル標準の対応をとるべきだ、などとは言うべきではないし、そのような言説をまき散らすような人はまともに相手にする必要すらないだろう。

 その人たちが言うところの「外国の成功事例」は、往々にしてデータの裏付けがあるものではなく、単なるパフォーマンスや印象だったりする。また実際に何らかの客観的な目標を達成して「成功」していたかに見えても、よくよく事情をさかのぼって、それに付帯するさまざまな条件や歴史的背景を勘案すれば、とても成功と呼べないものもある。単純化していえば、「これからあなたに何もしなくても一生食べるのに困らない生活を保証します。そのためには、これから一生牢屋で過ごしてもらいます」という文があったとして、後半の条件を見ずに前半の命題のみを見て、好条件だと思ってしまうようなものなのだ。

 事実の検証や定義、条件を無視して、目につく表面的な事象だけを取り上げ、四の五の言うのは、エンターテインメント的な対話を見世物にするワイドショーのキャスターやコメンテーターに任せておけばよいのである。少なくともその人たちは、自分たちが専門的な事象の解釈を求められているわけではなく、自分の本質的な知性とは関係なく、自分が必要とされる役割を見世物として演じ切ることを期待されて呼ばれていることを認識しており、それこそが専門家と同じ意味での「プロの矜持(きょうじ)」のはずである。

 よって、本来、専門家や知識人はこのような発言はしないはずなのだが、現下の日本においては、コメンテーターと知識人の役割の違いも、真の専門家と偽の専門家の線引きも一切明確に認識されず、区別されず扱われているようである。

 こういうときにこそ、われわれの情報に対するリテラシーが試される。われわれ自身がものごとの真贋を見極める能力を磨くための、つまり自己の成長のための絶好の機会ともいえるのだ。

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)