毛嫌いしていた筆者が
布教を始めるほどハマった理由

 筆者はかつて恋愛リアリティーショー毛嫌い派の急先鋒であった。当初は本当にひたすら嫌いだったのである。くだんの『テラスハウス』なら、気取った若い男女が、その私生活や異性とキャッキャしているところを公共の放送で垂れ流す。何が面白いのか。番組の作り自体、異様にしゃれぶっていて、ただただ気持ち悪く、見ないがハッピーと敬遠していた。

 ある日、妻が唐突に『バチェラー・ジャパン』を見始めた。二十数名の女性が1人の勝ち組イケメン男性を巡ってサバイバル争奪戦を繰り広げるという、一見すればこの上なく下品な趣旨・内容の番組である。

 恋愛リアリティーショー門外漢であった妻から「何げなく見たら面白かった。試しに見てほしい」と懇願され、「嫌だなぁ。気が重いなぁ。しかし夫婦生活こうした協調も必要なのであろうなぁ」と思いつつ見たら、もう頭がおかしくなるほど面白かった。

 第一印象は決して芳しくなかった出演者を見続けるうちに大好きになって感情移入することや、嫌いだった出演者の脱落を見てなぜか号泣させられることなどがあり、40年弱生きて培ってきた自分の人間性や価値観への信頼が根底から揺るがされたが、そんなアイデンティティーの喪失など、もはやどうでもよくなった。

 バチェラー熱が一段落して今度は妻が『テラスハウス』を見始め、また勧めてくるので、バチェラーとは趣旨が全然違うし、気が重いなと思いつつ見たところ、これもまた頭がおかしくなるほど面白かった。高ぶり過ぎて過去放送分にさかのぼって全シーズン、全エピソードを網羅して視聴するにまで至ったので、実際おかしくなっていたと言えるかもしれない。

没頭させる3つの要素
リスクと表裏一体

 かくして恋愛リアリティーショーに没頭してきたわけだが、没頭するほど面白いと思わされるべく、いくつかの仕掛けが施されている。

 まず、ドキュメンタリー形式のリアリティーを伝える「てい」が取られているので、出演者と彼らが織りなすドラマは等身大「ふう」であり、視聴者が抱く共感やヘイトは、映画やバラエティーなどの出演者に向けられるものより強くなる。

 次にスタジオトークの存在である。出演者たちの恋愛ドラマが一定時間流されたあと、それを見ていたスタジオにいるメンバー(タレント・著名人で構成される)がおのおのの感想を述べるコーナーが挟まれるのだが、これが非常に重要な役割を担っている。スタジオのトークでは視聴者が思ったことの代弁、自分とは違った角度の意見、新たな気づきをもたらす着眼点、今しがた見た恋愛ドラマを元にしたジョークなどが繰り広げられ、視聴者は逐一スッキリすることができる。

 そして、内容を誰かと共有することで恋愛リアリティーショーの面白さはさらに増す。少なくとも筆者の場合、最初は妻が横にいてくれなければ見ることはできなかった。1人で悶々と思いをため込みながら見るのはかなりのストレスであり、反対に誰かと称賛し合ったり悪口を言い合いながら見ると小気味いいのである。隣に誰かがいなくてもSNSを用いれば、視聴後、感想を誰かと語り合うことができる。実際に筆者は「バチェラー面白い」という投稿に反応してくれた既婚女性と盛り上がって知り合いになり、妻を不審がらせた。感想を誰かと共有しなくても、SNSでいろんな人の感想を読む、という楽しみ方をしている人も何人か知っている。

 上記3点は恋愛リアリティーショーを面白いコンテンツとして成立させている要素だが、これがそのまま恋愛リアリティーショーを危険なものにするリスクにもなっている。出演者の人生が、ずたぼろにされるリスクである。