「死」はデザインできない
──働き方も多様化していますが、その分、より「自分で決めなければならないこと」が増えてきたということでしょうか?
橋爪 最近だと、どんどん働き方も多様化していて、自分の好きなようにみたいな感じの流れにはなっていますけど、なんかこの、こと、死ということについて考えてみると、いざ考えようと思うと、それも、もう自分で全部、決めなきゃいけないという。
今は、自由ですよね。イエがなくなって、都会に住むようになった。自分を縛るものは特にない。こうやろう、ああやりたいというふうに思えば、たいていのことは止める人がいないから、チャレンジできる。うまくいくかどうかはわからないけど、やろうと思ったら、やりたいことはやれる。
そうやって、すべての人が、自分サイズで、自分のための人生を、自分で設計して生きている。何を着るかっていうのも、ルールがないから、自分に合ったものを着ればいい。どこの学校に行くか、どういう仕事をするかも全部、自分で考えて、自分らしい選択をすればいい。
ほかの人と同じである必要もないし、理由もない。全部、自分でデザインして、自分らしく生きている人というのは、横から見ても、かっこよく見える。一方、どうやったらいいか、よくわからなくてグズグズしていると、自分ってダメかもしれないとか思えてくる。
1948年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授。著書に『はじめての構造主義』『はじめての言語ゲーム』(ともに講談社現代新書)、社会学者・大澤真幸氏との共著に、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、新書大賞2012を受賞)などがある。最新刊に『死の講義』(ダイヤモンド社)。
さて、こと、死ぬということに関しては、デザインしにくい。自分なりのやり方で、自己流に「これがいいですねぇ~」みたいな、お店で服を買うような感じで、死の問題を考えられるかっていうと、そうはいかない。その根本的な理由は、自分で意志して、死ぬわけではないからだ。
転職とかなら、自分の好きなときにできる。でも、「死ぬ」ということに関しては、死にたくても死ねないものなんです、なかなか。それから死にたくなくても、死ぬものなんです。
つまり死ぬという出来事は、死ぬのは自分なんだけども、自分の行為とは言いにくい。半分以上、自然現象なんです。包丁で手を切って、血が出るのは自然現象だけど、一時のことで治るでしょ。だけど、死に関して言うと、回復不可能な、絶対的な変化が自分に起こるんです。いなくなっちゃうんだから。こんなすごい出来事が、自分の意志どおりにならないけど、確実に起こってしまう。
考えられない理由はこれです。デザインのしようがない。自分の意志どおりにならないことって、デザインできないんです。
この本でやっていることは、まず、死は自分の意志どおりにならない。デザインできない。受け入れるしかないことを認める。それが最初の出発点だ。
死とは、避けられない圧倒的な出来事であるということを、素直に認める。そうすると、自分の中にちょっと変化が起こるはずだ。
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