あえて「敵」同士に売り込む

 さて、どうするか?

 僕は、当時進めていた仕事のひとつに注目した。

 MS-DOSを搭載したIBM初のパソコン「IBM-PC」の開発が終わって、ホッとしていた1981年秋頃、ニューヨークと香港にあるスペクトラビデオという会社から、入門用のパソコンを作ってくれという依頼があった。

 すぐに香港に飛んで、試作品を見に行ったのだが、たくさん改善できるポイントがあると思った。そこで、「ここも、あそこも、あれも、これも変えてほしい」とお願いをした。すると、社長のハリー・フォックスは、「そんなに言うんだったら、好きにやってください。でも、いいものを作ってくださいよ」と任せてくれた。

 それで、僕は、マイクロソフトBASICを使った8ビット・マシンの集大成にしようと考えて、アスキー・マイクロソフトのメンバーと一緒に作り込んでいたのだ。「これだ!」と思った。このマシンをプロトタイプにして、パソコンの統一規格を開発すればいい。そして、僕は、統一規格の大まかな構想を考え、優秀なメンバー二人が具体化してくれた。

 プロトタイプが出来上がったのは1982年冬だった。

 早速、僕はそれを、松下電器の前田さんのところに持ち込んだ。「これをプロトタイプに、パソコンの統一規格をつくりたい」と訴えると、前田さんは「おもしろい」と言って、城阪俊吉副社長に会いに連れて行ってくださった。

 次に、訪問したのはソニーだった。

 創業者の盛田昭夫さんの次男の昌夫さんを知っていたので、プロトタイプを抱えてお願いに行った。松下電器とソニーは、「ビデオ戦争」で“交戦”状態にあったが、僕は、あえてそうしたのだ。

ついに明かされる! 伝説のパソコン「MSX」誕生の驚くべき“舞台裏”MSXを推進していた頃の写真。左から、ソニーの盛田昌夫氏、西和彦、ビル・ゲイツ。

 当時、後にソニーの社長になる出井伸之さんが事業部長だったが、ソニーはどうすべきか相当迷っていらっしゃったと思う。その迷いを吹っ飛ばしてくださったのが、大賀典雄社長だった。大賀社長は、松下電器の城阪副社長に電話をして相談をされたようだ。そして、「松下はやりますよ」という城阪さんの発言によって、ソニーも統一規格に参画することを決断されたと聞いている。

マイクロソフト・松下電器・ソニー

 これで、統一規格の実現性が生まれたと思った。

「ビデオ戦争」で対立する陣営にいた松下電器とソニーが、一緒に同じパソコンの統一規格を採用することには、大きな意味とメッセージ効果があると考えたのだ。そして、1983年の年明け早々からプロジェクトは動き始めた。

 まず、統一規格の名前だ。

 日本ビクターの「VHS」の例もあったので、英語の3文字にすることに決めていた。そして、いろいろ考えた名前のなかのひとつが、マイクロソフトの「次」という意味でつけた「MSX」という名前だった。どれにするか決めかねていたときに、ひらめいた。「MSX」には、松下電器の「M」とソニーの「S」が含まれている。「これはいい」と思って、「MSX」という名前に決定した。

 そして、メーカーを回って、MSXへの参画を呼びかけるとともに、参画企業の要望を反映しながら、統一規格の作り込みを進めていった。

 参画企業は順調に増えていった。松下電器、ソニーのほか、日立、東芝、三菱、富士通、三洋、日本ビクター、パイオニア、京セラ、キヤノン、ヤマハなど錚々たるメーカーが参画を決断してくださった。

 残念だったのは、当初、MSXへの参画を表明したNECが、最終局面で「考え方としてはいいが、うちは乗れない」と撤退を決定したことだった。パソコン市場に大きな影響力をもつNECの撤退は痛手だったが、MSXと正面からぶつかる家庭用パソコン「PC-6001」があったから、それもやむを得ない判断だったのだろう。

 一方、統一規格の中身も順調に固まって行った。

 本体のスロットにカートリッジを差し込めば、それだけでワープロとしても使えるし、ゲームで遊ぶこともできる。テレビにつなぐこともできる。とにかく安くて、誰でもすぐに使えるパソコンを作ることを目指した。僕は、「一家に一台」のパソコンができると期待を膨らませていた。その後、「大騒動」が勃発することも知らずに……。(つづく)

ついに明かされる! 伝説のパソコン「MSX」誕生の驚くべき“舞台裏”西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo