「信じていた人」に裏切られたときに省みる
香川県観音寺市にある一心寺は、700年以上昔に天台宗の寺院として創建されました。現在は真宗興正派のお寺として、掲示伝道にも熱心に取り組んでおられます。
この言葉は、現在上映中の映画『星の子』の完成報告イベントの中で、「信じる」について質問されたときに、主演の芦田愛菜さんが語ったことがベースにあります。実際は少し長いコメントですが、その一部をご紹介したいと思います。
「その人のことを信じようと思います」っていう言葉って結構使うと思うんですけど、「それがどういう意味なんだろう」って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、「自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな」と感じて。だからこそ人は「裏切られた」とか、「期待していたのに」とか言うけれど、別にそれは「その人が裏切った」とかいうわけではなくて、「その人の見えなかった部分が見えただけ」であって、その見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められる、「揺るがない自分がいる」というのが「信じられることなのかな」って思ったんです。
4月から女子高生となった16歳とはとても思えない「信じる」ことの本質を突いた深い洞察です。確かに私たちはたいてい他人の見たいところだけを見て、そこに期待をかけることを「信じる」と呼んでいます。
「仏さま、神さまを信じる」という言葉も、自分にとって都合のよい願いを託すときによく用いてはいませんか。私たちの「信じる」とは、どこまでも自己中心的なところから離れない行為であるといえるでしょう。
一心寺は真宗興正派という、宗祖親鸞聖人の教えを受け継ぐ真宗教団10派からなる「真宗教団連合」に所属しているお寺です。その浄土真宗では、「信心」が最も大切とされています。この「信心」は、上で述べた「信じる」とは異なります。浄土真宗本願寺派の学階の最高位である勧学であった故霊山勝海師は、著書『歎異抄―親鸞己れの信を語る―』の中でこのようにおっしゃっています。
信じるという一般の語は、思い込む、念じる、祈る、あるいは信念などの語と類似していて、私の意志の力で作り上げる心理作用である。これに対して他力の信心は阿弥陀仏の本願という法則を聞いて、なるほどとうなずくことである。
私たちの「信じる」には、どうしても自己の意思が混じります。一方で、親鸞聖人がおっしゃる「信心」は、自分の心から生まれるものではなく、阿弥陀仏からいただく阿弥陀仏の心です。「信心」とは、阿弥陀仏の本願の教えを聞いてうなずくことであると霊山師はおっしゃっているのです。
浄土真宗には同じ意味で「聞即信(もんそくしん)」という言葉があります。これは「阿弥陀仏の教えを聞いて、そのまま受け止めること」=「信心」ということであり、この言葉がまさに今回の掲示板の言葉につながっているのです。
私たちの心は大変うつろいやすくもろいものです。そして、その心から生み出される「信」も同様にもろく、残念ながら簡単に揺れ動いてしまいます。そう考えてみると、純粋に信じるという行為はなかなか難しいものです。みなさんも「信じる」ということについて一度考えてみてはいかがでしょうか?
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