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この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。(イラスト:塩川いづみ)
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら
[質問]
友人と思想が合わず、もやもやとしています。
6年来の付き合いのある、大好きな友人なのですが、考え方が合わなくなってしまい、どうすればいいのか分かりません。というのも、私自身が2年ほど前までは政治的なものだったり、いわゆるセンシティブと表現されるような事柄にまったくの無関心で生きてきたのですが、この2年でフェミニズムに興味を抱き色々と勉強するようになり、考え方も随分変わったと自負しております。
それ以来、友人と会話している折に相手の考え方に疑問を抱くようなことが何度かあり、それ自体は「思想が完全に一致する人間なんて居ないし、そんなものだろう」とやり過ごして来たのですが、先日Twitterで「フェミニズムは嫌い」といった旨のツイートをしているのを見かけ、決定的なズレを感じてしまいました。
考え方が合わなそうな人と進んで仲良くなったことがなく、その友人とは私の思想が変わる(あるいは明確に形作られる)前からの付き合いで、加えて私の一番好きな人間であったためにもやもやするというか、もはや苛立ちすら覚えてしまいます。
その友人とは普段からそういった思想的な話をしたことが無いので、八方塞がりに感じているのですが、これは私の気の持ちようなのでしょうか。思想が合わない人とも友達になれるものなのでしょうか。
分かりづらい文章となってしまい申し訳ありません。先生のご意見を伺いたいです。
キリスト教神学の考えを借りてお答えします
[読書猿の回答]
確かに分かりにくいご質問ですが、文章がそうだというより、結局のところ自分はどうしたいのか、あなた自身よく分からないことが原因だと思います。
そこで以下では、考え方のヒントくらいにはなるかもしれないと思うことを書いてみます。
物事をトータルに扱う理論や思想や世界観を新たに得た人が、自分がこれまでいた旧来のつながりや考え方と、どう付き合うのか/折り合うのかという問題について、多くの先人も悩み考えてきました(局所的な問題しか扱わない、トータルでない理論や思想の場合は、そこまで悩みは深くなりません。「それはそれ、これはこれ」で済むからです)。
この問題に一番長くしつこく取り組んできたのはキリスト教神学です。キリスト教は当初から、それが生まれたユダヤ人の伝統や文化と対立する要素を持っているだけでなく、旧来の思想や世界観と対立することを重要な宗教上の契機/原動力とするところがありました。たとえば「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」(ヨハネの第一の手紙 二・一五)。
この問題をキリスト信仰と文化の関係として捉えたリチャード・ニーバー『キリストと文化』をアンチョコにして整理してみましょう。なお、このニーバーさんは、「ニーバーの祈り」で有名な神学者ラインホールド・ニーバーの弟で、やはり神学者です。
1つ目のスタンスは、旧来のものを批判し拒絶することです。先に引用したヨハネの第一の手紙のスタンスですね。キリスト教の歴史の中でも繰り返し現れますが、ニーバーが典型例として挙げるのが(回心後の)トルストイです。ニーバーはこの例をもって、この立場の問題点、不十分さを指摘します。この世のあらゆる文化に反抗してキリストへの忠誠だけを貫こうとする「徹底的キリスト者」も、その実践は文化世界の現実のただ中で行わねばなりません。1つ目のスタンスは、異なるものをただ無視しているだけで、結局は自分たちの中に引きこもることにもなりかねません。
2つ目のスタンスは、1つ目とは正反対に、自分以外のものを受け入れ、順応していくスタンスです。旧来のものの中に新しい自分たちの思想を「発見」していくこともあります。このスタンスもキリスト教の歴史には古くからあって、古代のグノーシス主義から中世のアベラルドゥス、近世以降はロック、カント、ヘーゲル、エマーソンと名だたる哲学者たちが並びます。この物わかりのよいスタンスには、当然ながら、次の批判が起こります。だったらキリスト教でなくてもいいじゃん(その新しい思想いらないじゃん)と。そもそも旧来のものを強く批判してその新しい思想が生まれてきた理由、新しい思想の「生命」にあたるコアにあるものが蔑ろになってしまうのでは、という当然の懸念です。
3つ目以降のスタンスは、1つ目の否定と2つ目の順応の中間に位置しますが、中道の道をいくのにも3つの異なるスタンスがあるとニーバーはまとめます。
3つ目のスタンスは、新しい思想と古い思想の間の隔絶をしっかり認識した上で、その隔絶を克服して両者を総合しようとするものです。「これか、あれか」ではなく「これも、あれも」です。キリスト教の歴史では、当時地中海世界で随一の文化学術都市であったアレクサンドリアでギリシアの哲学者たちの教えに基づきキリスト教の教えを説いたアレクサンドリアのクレメンス、そしてヨーロッパ中世では、自身は修道僧として世俗文化から隔絶した生活・修行を続けながら、一方でイスラム経由でヨーロッパにやってきたアリストテレスを含む当時の知的世界全体を包括する著作を著したトマス・アクィナスなどがこれに当たります。これはものすごい力技で、誰にでもできることではありません。そして今一つの問題は、この大変な統合が成し遂げられてしまうと、その成果が固定化・制度化してしまい、ダイナミズムを失う危険が生まれます。
4つめのスタンスは、新しい思想と古い思想の間が相容れないこと、相矛盾することを引き受け、その矛盾に引き裂かれながら生きていくというものです。ニーバーは、この源流として、ローマ市民権を行使して皇帝に上訴しネロによって殺された伝道者パウロ(ローマ市民でありキリスト者であるという矛盾を生き、死んだ)を、そして典型例として「二つの王国がある。一つは神の国であり、他はこの世の王国である。」といったドイツの宗教改革者ルターを挙げます(ローマ教皇の誤りを指摘するほど信仰に生き、同時にウォルムス国会などを舞台にこの世の王国の間でも大立ち回りを演じた)。
ニーバーがこのスタンスの例にキルケゴールを含めているように、2つの間の矛盾を生き抜く生き方は実存的であり、そのダイナミズムはキリスト教のみならず、それ外にある諸文化にも活力をもたらしてきた、とニーバーは総括します。しかし危険性もあります。矛盾を生き抜くことの強力さは、旧来の価値秩序を徹底的に相対化しつくし、一種のニヒリズムに行き着く可能性があります。あるいは、パウロなら奴隷制への態度、ルターなら武装蜂起した農奴への残酷な眼差しに見られるよう、時代の価値観を無批判に認める文化保守主義に漂着する場合もあります。
5つめのスタンスをニーバーは回心主義者(conversionists)と呼びます。キリスト教に馴染みのない我々には分かりにくい言葉ですが、まずキリスト教徒とそれ以外の文化が互いに解消不能なほど相容れないこと、かといって1つ目のスタンスのように閉じこもることはできず、両者の間の矛盾を生きるしかないことを認める点は、4つ目のスタンスと共通します。
異なるのは、その矛盾が固定されたものでなく、歴史の中で不断に作り直されている(converting)ことを認めるところ、あるいはそのような作り直し(conversion)のダイナミズムとして歴史を理解するところです。
ニーバーはこのスタンスの代表例として教父アウグスティヌスを挙げます。新プラトン主義の修辞学者からキリスト教の説教者へと回心(convert)とした彼はまた、ローマ帝国という社会を皇帝中心の共同体から中世キリスト教世界へつながる共同体へと回心(convert)させた歴史的運動の指導者・理論家ともなっていきます。
以上、キリスト教の教義に関する部分を端折っているので、かなりデタラメですが、私のアタマだけだと5つも思いつけないので(せいぜい1~3、よくて4つ目ぐらいまで)、ニーバーさんに頼りました。
これら5つのスタンスの、いずれかが正解であるとは言えない、とニーバーは結論してます。また我々も現実も類型化では覆い尽くせないほど複雑で、一人の人生や運動を一つの類型に閉じ込めることはできないでしょう。
フェミニズムという思想を手にされたあなたが選ばれるのは、果たしてどのスタンスでしょうか。何かの参考になれば幸いです。