品川再開発工事で
存在が明らかに

 今回発見された高輪築堤のハイライトともいえるのが「第七橋梁」だ。海上に築かれた区間には第五橋梁から第八橋梁まで4つの橋梁が設けられ、第七橋梁は高輪ゲートウェイ駅の北に位置している。

 海上なのになぜ橋梁が必要だったかというと、当時の東京湾は漁業や舟運のために船の出入りが多く、線路で海岸線を完全にふさいでしまうと生活ができなくなってしまうことから、一部を橋梁にして水路を設け、海岸と東京湾を結んだのである。

 この橋梁、3代目歌川広重が1872年頃に描いた錦絵「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」に登場する橋梁と同じ形をしている。厳密には広重が描いた橋梁は品川寄りの第八橋梁だったようだが、第七橋梁と第八橋梁はほぼ同じ設計なので、広重の描写の正確性がうかがえる。

3代目歌川広重が1872年頃に描いた錦絵「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」3代目歌川広重が1872年頃に描いた錦絵「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」 出典:国会図書館デジタルコレクション

 大正時代に入ると東京湾の埋め立てが進み、沖合には広大な車両基地が新設され、高輪築堤は陸地に取り込まれていった。高輪築堤はその過程で取り壊されたと考えられていたが、実はそのまま地中に眠っていたのである。

 なぜ100年以上も、その存在が明らかにならなかったのかというと、高輪築堤の真上を山手線、京浜東北線の電車が走っていたからだ。2019年11月に高輪ゲートウェイ駅新設工事の一環として行われた線路切り替え工事で、両線の線路が鉄道開業以降初めて移設されることになり、その地下に埋もれていた高輪築堤の存在が明らかになったという次第だ。そうした歴史的経緯を踏まえても、高輪築堤は現在の場所にあり続ける方がふさわしい。

 来年2022年は、鉄道開業150周年の節目の年となる。西洋から技術を学び、独自に発展させてきた日本の鉄道文化の象徴として、高輪築堤の可能な限りの現地保存をJR東日本には求めたい。それはきっと鉄道会社が開発する新しい街にとっても欠かせないシンボルとなるはずだ。