スーパーサイエンスハイスクール(SSH)の旗が飾られた理科ホールには、元素周期表をモチーフにしたレリーフ、フーコーの振り子、SSH海外研修の記録などが置いてある

公立高校の教員は、定期的に異動を繰り返す。トップクラスの進学校に行く場合もあれば、教育困難校に赴任することもある。キャリアパスの上では、時に離島の高校の教壇にも立つ。都立日比谷高校校長になるまでに、現場での経験を通して教育力を培ってきた武内彰氏の原点はどこにあるのか。同時に、日比谷高校を例として公立高校の教育力についても考えてみよう。※役職はインタビュー当時のもの。(ダイヤモンド社教育情報、撮影/平野晋子)

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武内彰(たけうち・あきら)東京都立日比谷高校校長

武内彰(たけうち・あきら)東京都立日比谷高校校長

東京都立日比谷高校校長。1961年東京生まれ。東京理科大学理学専攻科修了。87年から東京都立高校の物理科教員として教壇に立つ。都立大島南高校教頭、都立西高校副校長、都東部学校経営支援センター経営支援主事、都立翔陽高校校長などを経て、2012年より現職。21年3月末をもって定年退職。4月より白梅学園高等学校校長に就任。著書に『学ぶ心に火をともす8つの教え』(マガジンハウス)、『日比谷高校の奇跡』(祥伝社新書)。

9年かけて築いた自分の授業スタイル

 武内彰校長は理学専攻科修了後、都立高校に物理科教員として赴任するものの、そこは教育困難校だった。今まで自分が培ってきた教え方をすべて見直し、どのようにすれば生徒の学びを進めていけるかを9年間にわたり考え続けた。

[聞き手] 森上展安・森上教育研究所代表
1953年岡山生まれ。早稲田大学法学部卒。学習塾「ぶQ」の塾長を経て、1988年森上教育研究所を設立。40年にわたり中学受験を見つめてきた第一人者。父母向けセミナー「わが子が伸びる親の『技』研究会」を主宰している。

――母校の東京理科大学は、昔から理科の先生をたくさん輩出していますね。

武内 学部生の頃は、研究職に進むか、民間企業に就職するか、教員になるか迷いました。高校時の担任の先生が、最後は日比谷高校で定年を迎えられたのですが、青年期の人間形成に関わってくださった先生でした。そのイメージに影響を受け、教員にも魅力を感じたのですが、大学に進んでからは、自分とは育ってきた環境も異なる子どもたちに向き合って苦労するのは嫌だなと(笑)。

 そこで、モラトリアム的に理学専攻科に進み、やがて教育実習を受けることになりました。母校で実習をとも思いましたが、 縁もゆかりもない中学校を割り振られました。なぜか生物の担当です(笑)。そこは荒れた中学校でしたが、かえって教えることへの意欲が刺激され、結局、教職を選ぶことになったのです。

――40歳で教頭になるまで、3つの都立高校で物理科の教員として教壇に立たれていましたね

武内 初任の学校がいわゆる教育困難校でした。かなり厳しい環境で、それまで自分で作り上げてきた教え方をすべて作り直すことにしました。研究会などに参加しながら、9年間かけて自分のスタイルを築き上げることができました。この基盤はどの高校に行っても通用しました。

――それはどのようなものだったのですか。

武内 まず、授業の中でどういう問いを設定するかです。生徒に考えてもらい、生徒間で対話して、それを表現してもらいます。そうして物理の法則などにつなげていく。

――新しい学習指導要領のような感じですね。ところで、大島には希望されて赴任したのですか。

武内 いやいや。ちょうどその時は母の手術があり、妻も働いておりましたので。しかも、3人目の子が生まれて10日目でしたから。もちろん単身赴任です。大学にも調布の実家から通っていましたし、それまで一人暮らしをしたことがなかったので、さみしくて。

 島の人たちはとても温かったのですが、月曜に買ったレタスが週末にはもう腐っているような状況でした(笑)。アイロンがけはうまくなりましたよ。今でも私の担当です。

――その後、都の東部学校経営支援センターにも赴任されていますね。

武内 2年間いました。管轄には日比谷高校も入っています。ここでは学校経営を支援するのですが、生徒がいないというのはつらいことでした。主に、個人情報の紛失とか、傷害事件とか、事故対応をしていました。また、優れた学校経営をされている校長から学ぶことも多かったです。