世界経済フォーラムが「ジェンダーギャップ指数2021」を発表した。日本は世界156ヵ国中120位と、主要7ヵ国(G7)で最低、これまでの日本の順位としても、過去最低だった昨年度121位に次ぐワースト2位となった。日本は世界的に見て男女平等が圧倒的に遅れており、距離を詰めることすらできていない現実が浮き彫りになったかたちだ。相変わらずの世の中において、日常でも「これってやっぱりおかしいのでは……」と気になる人が増えているのではないだろうか。
そんないま、ぜひ一読をお勧めしたいのが、このたび待望の日本上陸を果たした『フェミニストってわけじゃないけど、どこ感じる違和感について──言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた』(パク・ウンジ著、吉原育子訳)だ。作家の西加奈子氏が「違和感を大切にすることは、自分を大切にすることだ」と推薦文を寄せている話題の書だ。
韓国からの翻訳書だが、父権社会の伝統の根強い社会で「これっていったい……」と著者が見つけていく違和感は、どれもが日本で思い当たるものと瓜二つだ。仕事、家事、結婚、社会……違和感の正体はどこにあり、どう向き合っていけばいいのか? 同書より一部を抜粋して、特別掲載する。

パートナーに「お母さん」の役割を求めてしまう残念な現象Photo: Adobe Stock

「家事」はきりがないほどたくさんある

「夕飯、何食べる?」

「あるのでいいよ、何でもいい」

「……だからあるものって? 何でもって何?」

 結婚したら、誰かにつくってもらうのではなくて、自分でつくって食べる生活が始まった。誰に言われたわけでもないのに、自然と日々の夕食のメニューを考えるようになった。最初はそれが楽しかったけれど、それまでやっていなかったことをやることになったせいで、ストレスがたまりはじめた。

 夫は、私が何かものすごいごちそうをつくらなくてはならないというプレッシャーを感じていると勘違いして、「僕は何でも食べるよ」となぐさめてきた。

 その言葉は本当で、夫は冷蔵庫の作り置きのおかず数品でも文句を言わずに食べてくれた。それでも毎日夕飯の時間が近づくと気が重くなった。だから、何でもって何? そして、ふと気づいた。私は、メニューや作り方をシンプルにしたいんじゃなくて、 夫に一緒に考えて一緒に決めてほしかったのだ。

 家事というのは、実際にやってみなければどんなに手間がかかることなのかわからない。家事の内容は大まかに「料理、洗濯、掃除、ゴミの分別……」のように分けられるけれど、細分化しだしたらきりがない。

 夕飯の準備は、適当な経費と労力で食べることのできるメニューを決めて、冷蔵庫の食材を思い出して、足りないものを買いに行って、食べ終わったら片づけて、翌朝食べるものがあるか考える、そのすべてを含むのだ。

 キッチンの壁についた油のハネを拭き取り、詰まりかけたシンクの排水口をきれいにして、冷蔵庫にビールとミネラルウォーターをストックしておくのも、面倒だけれど定期的に必要なことだ。

自分で自分の面倒を見る

 夫に頼めばやってくれるだろう。でも、夫にお願いして、褒めて、あるいは小言を言って、また繰り返しお願いするなんて、考えただけでもうんざりする。

 自分が家事好きなほうでも、きれい好きなほうでもないから、仕事をしながら家事も責任を持ってやらなければいけないという負担が、なおのこと重たく感じられた。

 ほどなく、どこから芽生えたのかもわからない妻としての義務感はうすれていった。

 各自会社などで夕食を済ませたり、二人で外食したりする日が増えていった。

 そうなのだ、二人にとってはこっちのほうがずっと自然だった。これまでどちらもそうやって生きてきたんだから。

 結婚したてのころ、習慣のように、よくお互いに訊いたものだ。

「家に牛乳あったかな?」

「ティッシュがないね?」

「僕のシャツ、全部洗濯しちゃった?」

 つまり「お母さん」に何でも訊いていたみたいに。母親は不思議なことに私の探し物がどこにあるのか全部知っていて、必要なものは切れないようにきちんと補充してくれていた。

 母親と一緒に暮らしていたときは、洗剤がまだあるか考える必要も、ゴミ箱を空にするタイミングを見計らう必要もなかった。

 私も夫も、家事がどれだけ具体的で細分化された仕事なのか知らずに生きてきたのだ。でももう誰も私たちの分までやってくれない。

 一緒に買い物していたとき、「家にお米あったかな」とつぶやいたら、「それは君のほうが知ってるんじゃない?」と夫に言われたので、「なんで私が知ってるって思うわけ?」と訊き返した。

 夫は、一緒に家事を分担して暮らしているとわかっていながらも、その役目を十分果たしていながらも、無意識に家事の主担当は私だと考える習慣をしばらく捨てきれなかった。

 義務と自由が同時にある状態、それが自立であり大人であり、家のことは自分でやるということだ。

 夫がどれだけ家事を手伝ってくれるかではなく、二人がどれだけ自発的に家事をこなすかが重要だった。気の利く夫だから家事をやるということではなくて、自分たちが暮らしていくために、夫も家事をやりはじめる必要があった。

 配偶者に「お母さん」の役割を期待してはいけない。妻も夫も「お母さん」じゃない。それに母親だって、もうスーパーウーマンじゃなくていいと思うのだ。

(本原稿は『フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について──言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた』からの抜粋です)