人は自分の「ムダな努力」に気づかない
Tomy:バイアスをかけている、つまり「自分が間違ってるかもしれない」という想像力が働く人とそうじゃない人って全然言葉が通じないじゃないですか。これって通じる方法があるんでしょうか。
ひろゆき:ないんじゃないですか。もしあったら、宗教とか成立してないと思います。
Tomy:確かに、特定の宗教を信じている人と信じていない人って、言葉が通じにくいですよね。
ひろゆき:僕は基本的に「神さまはいない派」なんですけど、でも世界中には神さまがいると信じている人が何十億人といて、その中には神さまは唯一の存在だという派閥もあれば、複数だという派閥もある。もし、すべての人間が科学的・客観的な判断ができるのであれば、宗教はどこかの段階で終わってると思うんです。
Tomy:なるほど。人間って、信じているものの違いで断絶するものであって、その断絶は埋めようがない、と。
ひろゆき:断絶しているというより、自分が信じたい情報を探して、それに反発する情報を発している人を敵とみなすというのは、人間の機能なんじゃないかと思うんです。
Tomy:精神医学の世界では「防衛機制」という言葉があります。そのまま認めると自分にとって都合が悪い事実があったときに、それを認めずに何とかして自分を守ろうとする心の働きのことです。それに近いものかもしれません。
ひろゆき:たぶん、それは人間に限らず大多数の動物が持ってる機能であって、論理的・抽象的な思考ができる一部の人たちだけが、「自分が間違っているかもしれない」と考えているということ。
大多数の人は、自分では正しい努力とムダな努力の違いを認識できないということを、まず知るべきなんじゃないでしょうか。
Tomy:ひろゆきさんは誰かに「ムダな努力をしてますよ」と教えることがありますか。
ひろゆき:「普通に考えたらこっちが正しいはずで、直したほうが得だよね」ということがあったら本人に伝えることはあります。
例えば、目の前でせっせとウサギ跳びをしている人がいたら、「いやいや、ウサギ跳びって関節痛めるだけだからやめたほうがいいよ」と言います。それは感謝されたいとか世の中をよくしたいとかそういうことじゃなくて、道にゴミが落ちていたら拾ってゴミ箱に捨てるよね、というレベルの話。自分がすっきりしたいだけなんです。
目の前で故意に頭の悪いことをやっている人がいるときには、「面白いなー、この人」という感じで全然見ていられます。でも、本当に間違ってやっている人を見たら「それ間違ってますよ」と言いたくなるんです。
本屋さんで本が乱れて並んでいるのを見たりしたとき、勝手にきれいに並べ直しちゃったりするお節介なお客さんがいるじゃないですか。そういう感覚に近いです。どうしても気になっちゃうんですよね。