「栄東」を超人気校に導いた女性校長世界銀行の通訳として欧州各国や米国に赴任した田中校長。写真は、ポルトガルの小学校で教育視察を行った際に生徒たちと(1968年) 写真提供:田中淳子氏

世界銀行の通訳から教員の世界に

――田中先生の経歴も多彩ですね。

田中 大学在学中に通訳の資格を取って、卒業後に世界銀行に入り、ヨーロッパ各国で通訳および秘書をしていました。帰国後、事故に遭い入院しているときに、当時の京都市の教育委員会から「高校の臨時採用教員をやってくれないか」と言われ、衣笠(京都市北区)の山の中に赴任することになりました。小中高の教員免許状を持っていたので、生徒が1人だけの小学校分校にもバイクに乗って教えに行っていました。それが面白くなって、教員の世界に入りました。

――いつから埼玉にいらっしゃるのでしょうか。

田中 地方公務員の試験を受け、京都、静岡で教壇に立った後で、埼玉の教員になりました。その後、埼玉県の中学校の校長になり、また、県の社会教育施設では青年の家の所長をやらせていただきました。

 県の中高協会で、佐藤栄太郎先生に出会ったのは、50代後半の頃でした。英語の教員として佐藤栄学園に来るように要請されました。

――田中先生は現在、佐藤栄学園の理事長も兼任されていますよね。大変ではないですか。

田中 理事長として学園全体の経営に関わる職務は難しいところも多々ありますが、学園本部長や理事の先生方の助けを借りながら、日々取り組んでいます。

――それでも頑張っていらっしゃるのはなぜですか。

田中 毎日、栄東中学・高校の生徒たちや先生方に会って、元気をもらっています。いまでも英語の授業ができることが最高の幸せです。「先生死ぬなよ、僕が東大に入るまであと1年ぐらい頑張れよ。その後なら死んでもいいから」なんて言う生徒もいます(笑)。そんな生徒たちとの日々の何気ないやり取りが、私の毎日の活力になっていますし、生徒には生きがいをもらっていますので、いつも感謝しています。

――本当に先生と生徒の距離が、とても近い印象を受けますね。

田中 教師や職員室の垣根が低いので、学習の質問や添削依頼など、生徒は気軽に各教科の先生を頼ってやってきます。部活動でも生徒たちの熱量はすごい、だから先生たちも彼らに引っ張られて頑張っているのではないでしょうか。

――やはり大変なのですね(笑)。

>>(2)に続く