手形は絶対に切らない
1984年、僕は25歳で四代目社長になった。おやじがある日突然、「俺、今年60になるから定年や。社長、交代するで」と言ったから。
おやじの代は1ドル=360円の固定相場制で、輸出が花型の時代だった。ところが、翌1985年のプラザ合意後、一気に円高に転じて3年後には1ドル=120円まで行ってしまった。その結果、「材料代は同じで、売り上げは半分」という状態が続くことになった。新米社長としてはホントに弱った。
ウチみたいな製造業は材料の仕入れがあるから、手形を切るのは当たり前。でも、どんなピンチに陥っても、僕はかたくなに手形を切らなかった。というのも、おやじの時代に一度だけ、手形を切ったものの集金できず不渡りを出したことがあったから。
絶対に手形は切らない。その代わり、おカネがない時は本当にない。毎日毎日が、まさに自転車操業だった。
「プラザ合意」に端を発したピンチのさなか、一つだけ助かったのは、輸出は商品を作って出荷すればすぐにおカネが入ってきたこと。日本国内で売る場合は掛け売りだから、締め日があって、支払い日があって、出荷から入金まで1ヵ月以上かかる。それが、外国相手だと1週間くらいで現金になる。
1ヵ月に何回も出荷すれば、次々に入ってくるおカネで何とかやりくりができた。綱渡りと言えば綱渡りだけど、手形さえ切らなければ不渡りはない。廃業はあっても倒産は絶対にないわけ。廃業と倒産じゃ、雲泥の差。
僕は、自転車操業はそれなりにいいものだと思ってる。もちろん、手形を切りながらの自転車操業はリスクしかない。でも、手形さえ切らなければ、会社のダメージは最小限ですむ。