物語において「何が語られているか」以上に
重視されるもの

『未来は予測するものではなく~』や『SFプロトタイピング』では、SFとは「サイエンス(科学的)フィクション」であるのみならず、「スペキュラティブ(思弁的)フィクション」であると説明されている。スペキュラティブフィクションとは、「これまではできなかったものの考え方ができるようになるきっかけを与えてくれるフィクション」くらいの意味である。

 しかし、SF自体は科学でも思弁でもなく、フィクション、すなわち物語である。AI研究者の大澤氏は、これまでのSFプロトタイピングの実践の中で、SFとは物語であり、物語は「人に語るもの」であるということに改めて気付かされたとトークショーで語っておられた。これは大変に重要な視点だと思う。

 物語において重視されるのは「何が語られているか」以上に「どう語られているか」で、言葉、語り口、文体がないがしろにされていては物語にならない。「うまく書く必要」も「流麗な文章を書く必要」もないとしても、「人に語る」ということに対する明敏な意識はなければならない。これはアウトプットとしてのSF作品だけでなく、SFプロトタイピングを巡る語り方そのものにもいえることで、方法論や考え方がどれだけ魅力的でも、その語り口がしゃくし定規であったり、紋切り型であったり、特定のコミュニティの中だけで通用するようなものであったら、広く人口に膾炙(かいしゃ)することはないだろう。

 その点で、空間的にも時間的にも遠くまで届きそうな魅力的な言葉、語り口、文体をはっきり持っているのは、樋口氏だと思った。それは、文章とトークの両方から感じられることで、要するに圧倒的に分かりやすくて面白いのである。SF思考を「妄想」と断言しているのは、樋口氏一人である。

 また、「SF思考とは愛である」という難波氏の表現も、美学者ならではの独自なものだと思った。自分と他者との葛藤を乗り越え、周りの人を愛せるようになる思考法がSF思考なのだと難波氏は言う。これはSFプロトタイピングの射程を、テクノロジーやビジネスだけではなく、未来の社会をどうつくっていくか、人と人との関係をどう考えていくかというところまで大きく広げる言葉だと思う。

 SFが物語である以上、人間に対する深い洞察がなければならないし、人間を洞察するには人文学やリベラルアーツの幅広い知見が必要とされる。『SFプロトタイピング』の中にはそのような視点が多少あった。樋口氏も「人間自体は変わらず、いつまでも人間であり続ける」と書いておられる。とっぴな妄想の果てに、そのような人間の不変性と普遍性が見えてきたとき、SFプロトタイピングはさらに多くの支持者と実践者を得ることになるのではないか。

 3冊の本では、現在の私たちの社会に影響を与えた優れたSF小説が幾つも紹介されている。まずは、それらの小説を浴びるほど読んでみたいと思う。『SF思考』の副題にあるように、SF思考とは、ビジネスのためのツールというだけでなく、「自分の未来を考えるスキル」に他ならない。SFの世界に耽溺してみることが、そのスキルを身に付ける初めの一歩になるはずである。