進行の食道ガンステージ3を生き抜いたジャーナリストの金田信一郎氏が、病院と治療法を自ら選択して生き抜いた著書『ドキュメント がん治療選択』。がんに罹患し、どのような治療を選択するのかは、「どう生きるか」を問うことでもあります。そこで今回は、末期がん患者などの在宅医療について描いた作品『エンド・オブ・ライフ』を書いたノンフィクション作家・佐々涼子と対談。在宅医療やがん治療を通して「死を迎えること」と「生きること」についてうかがいました。(聞き手は金田信一郎、構成は添田愛沙)
金田信一郎さん(以下、金田) 佐々さん、今日はよろしくお願いいたします。佐々さんのこれまでの著作物(『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』、『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている:再生・日本製紙石巻工場』、『エンド・オブ・ライフ』など)を拝読すると、佐々さんとは関心を持つテーマが近いように感じました。年齢も同じくらいですよね、私は1967年生まれなんですが。
佐々涼子さん(以下、佐々) 私は1968年の早生まれなので、同級生ですね。
金田 やっぱり。実は私も復興で石巻にはよく行っておりました。日本製紙にもよく足を運びました。最近では、宮城の金田諦應(かねだたいおう)さんという僧侶の方の取材で、石巻に行っているんです。復興カフェや寺子屋、高齢者の方々の心のケアをしている方で。
諦應さんは息子さんとともに東北大学病院で、緩和ケア病棟の患者と、地域の子どもたちとの交流に取り組んでいます。今は、子どもたちが死に直面することが少なくなっているので、身近に「死」を感じられる機会にもなっていて。
そんな折、「死」に直面した人々を描いた佐々さんの著書『エンド・オブ・ライフ』を読ませていただきました。佐々さんがどのように在宅医療や緩和ケアに興味を持ったのか。また、患者や医療者を見続けてきて、何を感じられたのか。それを、今日は伺いたいと思っています。在宅医療に関心を持たれたきっかけは何だったんですか。
母の生死を自分で決められるか
佐々 2011年頃、母が大脳皮質基底核変性症という難病になりました。当時、母は60代後半でしたが、運動神経に障害が出て、アゴが動かなくなってしまった。食べられないので、胃ろう(胃への導管)をするかどうか、父や私が決めなければならなくなったんです。
母は、胃ろうをしなければ死んでしまう。だから、胃ろうをするかどうか決めるということは、母が生きるか死ぬかを決めることでもあったんです。
医師からは、「胃ろうをしない場合、1ヵ月ほどで餓死します。最初は胃ろうを拒否していても、その経過があまりに苦しそうなので、ガリガリに痩せてから『やっぱり胃ろうをしてください』と懇願する家族もいらっしゃいます。だから最初から胃ろうした方がいいですよ」と言われました。
親の生死を決めなければいけないという時、自分が「死」について何も知らなかったということに気づきました。いざ選択を迫られても、それを考える術も経験もない。どうしたらいいのかまったく分からなくて。結局、父の決断で胃ろうをつけることになりました。
このことが在宅医療や緩和ケアに関心を持った一番大きいきっかけです。
その頃、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』という、海外で客死した人々の遺体を運ぶ仕事について書いていました。取材をしていたみなさんは、遺体のプロフェッショナルでしたし、「死」や遺族の気持ちについて教えてもらいたいという気持ちもありました。
金田 取材では「死」をテーマにしているけど、自分自身としてはあまりそこに向き合ってこなかった、ということですかね。
佐々 そうですね。『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』や、その後に取材した東北の復興現場などで、たくさんの人の悲しみや苦しみを見てきました。でも、取材対象者の生死を見つめるのと、自分が親の生死に直面するのとでは、全然違ったんです。自分の親や自分自身については、(他人から)どんなことを聞いても参考にならなかったし、分からないままでした。
「死」までの距離が変わった
金田 私も、尼崎の脱線事故現場や3.11直後の東北の海岸で、多くの遺体を見てきました。だから、自分としては「死」に近いところにいるように思っていた。けれど、拙著『ドキュメントがん治療選択』にも書いた通り、実際に自分ががんになったら、今まで感じていた「死」までの距離とはまったく違いました。
佐々 その感じはよく分かります。私にとって、「死とは何か」ということは未消化の宿題で。医師や殺人犯、家族を殺された人にも会いました。フランスやインド、スコットランドなど、海外の仏教施設やスピリチュアルコミュニティも半年くらい渡り歩いて。仏教者だけではなく、祈祷や気功、瞑想の実践者など、いろいろな人の話を聞きました。
ただ、当たり前のことですが、彼ら・彼女らも死んだ経験はないんです。「死」は概念だから考えても仕方がないな、と思っていて。その頃、自分の体調も悪かったので、ジムで筋トレをしていたんです。人の話ばかり聞いて、自分の心や体と向き合ってこなかったので。
2013年になって、編集者の勧めもあって、京都で訪問医療をしている診療所の在宅医療の取材を始めました。
金田 2013年から取材を始めたものの、途中の5年くらいは、ある意味ほったらかしの状態だったと聞きます。
在宅医療か病院か
佐々 在宅医療については、本を読むとふわふわしたものが多いんです。ヨーダ(スターウォーズのキャラクター)のような先生が出てきて、在宅医療はすばらしいし、簡単だ、みたいな。
でも私は、父が在宅で母を看ていたこともあって、すべての人に「在宅医療がいい」とは言い切れませんでした。家族への心理的な負担もある。たとえ医療や介護のチームが入ったとしても、やっぱり家族は家に縛りつけられることになる。だったら病院の方がいいかもしれない、とも思っていました。
たしかに、『エンド・オブ・ライフ』の取材をしている間、在宅医療でものすごい奇跡が生まれる瞬間に立ち会いました。でも、患者さんの中には、「病院の方が気楽だ」という人もいました。
他人の死をどんなに見ても自分事にならないように、「在宅がいいか、病院がいいか」ということについても、評価はできないんですよね。
金田 確かに難しいですね。それぞれの患者さんの考え方や価値観、家族の状況にもよりますから。例えば、現時点では在宅がいいと思ったとしても、在宅の場合は誰か看る人がいる前提です。今は家族が介護をするつもりでも、未来はどうなるか分からない。状況によっては、病院の方が快適な可能性も十分にあります。病気の種類や重さにもよるでしょうし。激しい痛みを伴う病気や急性の症状だったら、在宅がいいなんて言っていられないでしょう。
自分の判断軸は一応、持っていた方がいいかもしれませんが、実際はどうなるか分からない。成り行きもありますから。
がんを患った友の話を聞く
佐々 分からないですよね。在宅医療の取材の中で、訪問看護師である森山文則さんに出会いました。
医師や森山さんら看護師が、病気やけがで通院が難しい人や、退院後も治療が必要な人、自宅での終末医療を望む人たちのために、自宅を訪問して医療を行います。私はその訪問医療について行って、家族でも医療者でもない第三者として、ただ見せてもらっていました。
2018年、「京都にすぐ来てくれ」と連絡がありました。森山さんのがんが発覚したんです。私は本も書き進めていないし、森山さんとはその頃、普通の友達になっていて……。「森山さんが自分の命を懸けて何か言いたいことがあって私を呼んでいるのだろう」と思って伺うのですが、実際に会ってみると「どこどこの食堂がおいしい」とか、「〇〇神社はすばらしかった」とか、そんな話しかしないんです。
今、考えてみれば、私がただ黙って聞いていること自体が、彼にとっては励みになっていたのかもしれません。彼自身もがんという病から逃げていたし、言葉にして形になってしまうのも怖かったのかもしれない。心が揺れるままに普通の話をして、亡くなる直前も、「トースターで干し芋を焼くと甘くなるよ」とか、そんな話しかしませんでした。
金田 「ジャーナリストが隣にいるのだから、言い残したいことを語っておこう」というわけではなかったんですね。
佐々 そうなんです。
金田 それでも森山さんは、佐々さんが近くにいることを望んでいたんですよね、最期まで。
佐々 森山さんの妻のあゆみさんが言うには、私が帰った後、森山さんは具合が悪くなったりしていたそうなんです。「佐々さんがいる時は気を張っていたし、自分の生きざまを見せたいという強い気持ちがあった。それは良かったと思う」と後で言ってくれました。
「半分ジャーナリストで、半分友達」という私の存在が、彼にとっては居心地が良かったのかもしれません。他人だからこそ話しやすいこともあるし、ちゃんと見てくれるだろう、こういうふうに書いてくれるかもしれないと、どこかで思っていたんじゃないかな。
在宅医療がすべて
すばらしいとは思えない
金田 ジャーナリストとか作家って、言葉をそのまま文章にしなくても、仕草や情景を文字に残す可能性がありますよね。だから、森山さんが佐々さんにいてほしいと思ったのは、やはり何かを感じて残してくれるかもしれない、という信頼に近い期待があったのでしょうね。
佐々 私は先ほども言いましたけど、在宅医療がすべてすばらしいとは思い切れなかったんです。森山さんは訪問看護師としてそれまでの経験もあって、その上で、自分の好きなように命を生き切ることがどんなことなのかを、身をもって私に伝えたかったんだと思います。
金田 森山さんが看取った方は200人くらいだと聞きます。その一つひとつに彼は心を動かされたんでしょうね。きっと心を大きく打つような言葉や場面もあったはずです。
佐々 そうですね。200人の方々から託されたものを次に渡す役割をきちんと果たさなければ、という気持ちはあったのだろうし、さらにそれを私に託したい、と思ったのかもしれません。そういう森山さんの気持ちがまた、私を動かしたんだと思います。
人の命は回っていくもの
金田 一番印象に残っている場面は?
佐々 森山さんがまだ元気だった2013年、訪問診療に行っていたお宅でハープコンサートがあったんです。篠崎さんという患者さんの家で、満開の桜が庭に咲いていて。アヴェ・マリアを聞きながら、篠崎さんと家族がすごく幸せそうにしているのを、森山さんが満足そうに見ていました。彼も、本当に幸せそうにしていたんです。
人の命は、一直線にあって消えてしまうのではなく、回っていくものなのではないか。肉体がなくなることと、人が死ぬということは、また別のものなのではないか。森山さんの肉体はもうないけど、彼の精神は生きている。命を懸けて伝えてくれたことが、誰かの人生に影響を与えている。それは希望だ、ということを教えてもらったような気がしています。
金田 心を動かされることが文字で残されたり、誰かの心の中に残って言葉として伝えられたりすることもありますよね。その場で共有しなくても、何らかの形で未来の人に伝わっていく可能性はある。そう考えると、つながっている、輪になっているっていう感じがしますね。
佐々 切れ端でも、ささやかなことでもいいから、誰かの記憶に残ってつながっていることがとても大切なことで。生きるって、何も大きなことを成し遂げなくてもいいと思うんです。
『エンド・オブ・ライフ』には、森山さんが看取った人の話と、看取られていく彼の話が交互に出てきます。それは、彼が看取った人と彼がつながっていて、彼が私とつながっていて、私が本を通じて世の中とつながっていて……。
そうやってつながっているとしたら、森山さんも森山さんが看取った人たちも、いなくなってはいないんじゃないか、と。
ある書店員のおばあちゃんは、「冷蔵庫に〇〇が残っている」と言って亡くなったそうです。冷蔵庫に残していったものが最後の言葉って、すごく素敵だなと思って。大それたことじゃなくても、思い出したときに温かい気持ちになったりする何か。それが、その人が生きてきたということなのではないか。それで十分なのではないか。今はそう思っています。
がんを患い、物怖じしなくなった
金田 インタビューの冒頭で、佐々さんはお母さまに胃ろうを付けるかの判断をどうしていいか分からなかったとおっしゃいました。その後、在宅医療や緩和ケアについて7年間取材されて、多くの死にも直面して、何か変わりましたか。
佐々 すごく変わったと思うんですけど、難しいですね。金田さんは実際にがんという病を体験されてどう変わりましたか。と、逆に聞いてしまいますが(笑)
金田 私は物怖じしなくなりました。私も、「死」はたくさん見てきたんです。精神病者たちが住む町で取材をしていたら、前日に取材をした患者さんが自死してしまったこともありました。企業の不正事件を取材していたら、対象者が首をくくったり海に入って亡くなったり。自然災害や大事故も見てきました。でも、それらはすべて「他人の死」だった。だから、自分の死生観には大きな変化を生んでなかったんです。
それが突然、自分のがんが発覚した。気づいた時には食道がんのステージ3で、5年生存率は約26%と分かりました。抗がん剤で髪の毛も全部抜けて、体力が衰えてほとんど歩けなくなって。自分自身の「死」を目前にして、つまらないことは気にしなくなりました。
あと、時間の感覚が変わりました。私にはもう、時間がないんです。書きたいことは山ほどあるけれど、5年後に私が生きている可能性は低い。もし生きていたとしても、身体の状態はあまり良くないと思うんですね。だから、取材活動ができるのはあと2年くらいだと考えています。
これだけは書いておこう、それでまだ書けそうだったら次はこれだな、と。「自分の締め切り」がはっきり見えてきました。佐々さんは、何か変わりましたか?
「どう生きるのか」に
正しい答えはない
佐々 私は今まで、努力をして、自分以外の別の何かになりたいと思ってきました。自己卑下するようなことがわりと強かったんです。けれど、そういう自信のなさが一切なくなりました。
それまでは、「正しい答え」が自分の外側にあると思っていて、それを見つけ出すために、世界中を回っていました。私が知りたい真理を持っている人がどこかにいるはずだ。だから、その人を探さないといけない、と。でも、ようやく、正しいものや間違っているものはどこにもないんだ、私は私自身でいればいいんだ、ということが分かりました。
在宅医療や医療の選択肢についての考え方も、絶対に正しいものはないし、亡くなるまでの道程はみんな違います。誰かに問うても、「私がどう生きるのか」という答えは誰にも分かりません。それは私しか知らないんだと思うようになりました。
金田 大きな変化ですね。
佐々 大病を患うと、私たちはつい、専門家の意見を聞いて、権威づけされた情報を信じようとしてしまいます。でも、医師が何と言おうと、想定より長く生きる人もいれば、病気ではなく次の日に事故で亡くなってしまう人もいる。
西洋科学は万能ではないし、病院が示す標準医療が絶対とも言えない。人の気持ちがどう動くのかも、まだ謎だらけです。私たちの未来なんて、誰も分からない。だから、分かっている、と言う人ほど怪しいと思うようになりました。
それぞれみんな、別の人間です。誰かがした選択が、自分にとっても良い選択だとは限らない。だから、自分らしく生きていい。それを『エンド・オブ・ライフ』を書きながら、みなさんに教えてもらったような気がします。